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お兄ちゃんとの大切な想い出 連載291〜300

「お兄ちゃんとの大切な想い出」に掲載した連載291〜300(ここでの連載110〜119)を抽出したものです。番外編もあります。(管理人:お兄ちゃん子)

281〜290
291292293294295
296297298299300
301〜310

●連載291(ここでの連載110)●
2003年7月8日(火)22時55分

お兄ちゃんに招待されたのをきっかけにして、
学校が休みの日にUと連れ立って、
お兄ちゃんの働く喫茶店に何度か出かけました。

わたしの顔を見て、お兄ちゃんは一瞬驚きの表情を見せましたが、
すぐに「いらっしゃいませ」と、お客様を迎える笑顔で会釈してきました。

わたしとUは奥のテーブル席に着いて、
カウンターで客の相手をするお兄ちゃんを観察しました。
人懐っこい笑顔ときびきびした挙止が素敵です。
お兄ちゃんのファンとおぼしき固定客が付いているようでした。

細長いスプーンでパフェを食べながら、Uがわたしを横目で見ました。

「やっぱりアンタの兄ちゃんモテてるみたいやなぁ。
 気になるか?」

わたしは複雑な思いでうなずきました。

「…………。
 お兄ちゃん、カッコいいもん。仕方がないよ」

「ふぅん。あんまりモテるのも考えもんやな……」

ふと、Uの態度が気になりました。
Vの一件以来、快活なUも元気がなくなっていました。
けれど、こんなに物憂げに沈みこむUを見るのは初めてでした。

「……? U、なにかあった? Vのことが心配?」

「……それもあるけどな。アンタに話があるねん」

「なに? もう、少々のことでは驚かないよ」

わたしはわざと茶化すように答えました。
Uは細長いスプーンを咥えたまま、目を伏せました。

「あのな……ぼちぼち進路を決める時期やん。
 アンタは来年どないするのん?」

「わたし? わたしはあんまり学校に行ってないし、浪人かなぁ……」

「私立やったら入れるとこあるんちゃう?」

「公立しか行く気ない。あの父親の世話にはなりたくないから」

「アンタも頑固やなぁ。
 嫌いなヤツやったら思い切りスネかじったったらええやん」

「Uはどうするの?」

「わたしはな……う〜〜、言い出しにくかったんや。
 けど今打ち明けんとずるずるいってしまうし……言うわ。
 わたし、こっちの高校を受験する気はないねん」

「え?」

「兄ぃのおる田舎にある高校を受けるつもりや」

わたしは思わず、Uの顔を覗き込みました。
冗談を言っている顔つきではありません。
思いもしないほどのショックに、足下が液状化したようでした。

「引っ越す、ってこと?」

「お父ちゃん、今年は転勤なかったけど、来年はまず間違いない。
 次はどこに引っ越すことになるんかわからへん。
 わたしがこっちの高校に進学しても、
 ひとりでこっちに残しとくわけにはいかへん……ちゅうわけや。
 田舎の家やったら兄ぃもおるしな……」

「そう……。Vはこのこと、知ってるの?」

「Vは今落ち込んでる真っ最中やからなぁ……。
 そのうちに話すつもりや」

「Vもさびしがるね」

「そやな。けど……これで終わりになるわけちゃう。
 わたしら、ずっと友達やんな?」

いつも軽口を叩き合っているUに、
真剣に感謝する機会は今しかない、と思いました。

「うん、もちろんそう思ってる。UもVも、一番大切な親友だよ。
 わたしが中学校に通えたのは――欠席が多かったけど――
 UとVが居てくれたおかげ。ずっと、友達でいてほしい」

「Vもきっと、同じこと言うと思うで」

「卒業式の後で、お別れパーティーしようね」

「そやそや、パーッといこ。その頃にはVの辛気くさい顔も治ってるやろ」

「そうだといいね」

Uと笑顔を交わしていても、さびしさの予感は拭いきれませんでした。
成績の良いVは、地元の名門女子高に進学するだろう、と思っていました。
わたしは、小学校時代のように独りぼっちになるんだろうな、と。

Vの進学先の予想は、結果的に外れていました。
事業の関係で翌年からヨーロッパのある国に常駐することになった両親に、
Vも同行することになったのです。

Vが「おにーちゃん」と過ごしたこの街で、
思い出の道やお店を見るたびに涙する傷心の愛娘に、
ご両親が転地を勧めたのです。

わたしは、眩暈のするような思いで、この知らせを受け容れました。
これ以上、悪い知らせは続かないだろう、と思いました。
その考えが甘すぎた……と知り、わたしが絶望の一歩手前まで
突き落とされたのは、秋の終わる頃でした。

(続く)

●連載292(ここでの連載111)●
2003年7月9日(水)22時35分

わたしは、電車の座席で揺られていました。
左隣の父親が、ずっとぶつぶつ悪態をいていましたけど、
わたしは聞いていませんでした。
夕暮れ時だった……はずです。けれど、自信はありません。
世界が色を無くしていたのは、わたしの気分のせいだったとも思えます。

その記憶のどこにも母親の姿が登場しないのは、
忘れてしまったか、それとも本当にその場に居なかったのか、わかりません。
わたしの意識はひたすら、「お兄ちゃん、どうして?」という言葉に
塗り潰されていました。

父親の背中を追って、救急病院に入りました。初めて見る病院です。
わたしがいつも通っている病院とは違う、よそよそしい雰囲気でした。
お医者さんが父親となにか話しています。
わたしが聞き取れたのは、一言だけでした。

「命に別状はありません」

お兄ちゃんは生きている……安堵のあまり、わたしはよろめきました。
病室に入ると、周りに居るはずの看護婦さんも父親も、意識から消えました。
お兄ちゃんは、白い顔をして、白いベッドに横たわっていました。

わたしは枕元にとりすがって、間違いなくお兄ちゃんが呼吸していることを
確かめました。目をつぶっていましたけど、眠ってはいないようでした。

「お兄ちゃん……」

知らないうちに、わたしは泣いていました。
取り乱しすぎて、どうして涙が出てくるのか、自分でもわかりません。
お兄ちゃんは目蓋を閉じたまま、つぶやきました。

「すまん……すまん……」

病院への道すがら、ずっと頭を占めていた質問が口をついて出ました。

「どうして、どうして、死のうとしたの?」

「……わからん。覚えてないんだ。今日、なにがあったか」

大量に摂取したという睡眠薬の影響か、記憶が混乱しているようでした。
そばにいた看護婦さんが、声をかけてきました。
お兄ちゃんは体を鍛えているせいで、軽く済んだ、ということ。
一晩だけ入院して経過を見たら、帰宅できるということ。
そして、もう一つ。

「gさんのことも、心配しなくていいよ。
 もともと体が弱くて、内臓に影響が出ているみたいだから……
 しばらく入院してもらうことになりそうだけど」

振り向いて、看護婦さんに頼みました。

「あの……お見舞い、できますか?」

「う〜ん。今眠っていると思うんだけど。顔を見るだけだったらいいかな」

わたしは、たぶん父親といっしょに、gさんの病室に案内されました。
今日初めて名前を知った、お兄ちゃんといっしょに薬を飲んで、
心中しようとした女の人の所へ。

病室に入ると、白いベッドに寝ているgさん以外、誰も居ませんでした。
付き添いの家族は、まだ来ていなかったようです。
目蓋を閉じているgさんの顔を見て、わたしは息が止まりました。

肩より短くした髪。透けるように白い肌。血の気の薄い唇。
毛布を掛けていてもわかる、華奢な首と肩。
わたしより一つ年上だけど、平均より低めの身長。
お兄ちゃんの通う高校の下級生だというgさんは……
並ぶと姉妹と間違えられそうなほど、わたしによく似ていました。

眠り姫のように目を開かないgさんの枕元で、わたしは丸椅子に座って、
顔を眺めました。これが……お兄ちゃんがいっしょに死のうとした相手。

お兄ちゃんが自殺を図るなんて、その時まで想像もしていませんでした。
わたしは一瞬たりとも、自ら死のうなどと、考えたこともありませんでしたから。
でも……もしお兄ちゃんが死を望んだとしたら……。
どうしても、お兄ちゃんを翻意させられなかったとしたら。

わたしは、お兄ちゃんに付き従って、共に死を選んだかもしれません。

けれど。
けれど……!
お兄ちゃんが死への道連れとして選んだのは、わたしではありませんでした。

gさん。
わたしによく似た顔と背格好の。
きっと、お兄ちゃんがわたしに隠していた、恋人。
わたしの知らない理由で、いっしょに死のうとしたほど、お兄ちゃんが愛した人。

わたしの心は散り散りになっていて、
どうして自分がまだ体を動かすことができるのか、不思議でした。
自分がどんな受け答えをしたのか、覚えていません。
いつ、誰から、gさんのことを聞いたのかも。
お兄ちゃんから聞いたのか、それとも父親と母親の話を耳にしたのか。

gさんは、お兄ちゃんの通っていた高校の、1年生でした。
父親は誰だかわかりません。
母親は、gさんがまだ幼い頃に、姿をくらましたそうです。

gさんが育ったのは、伯父さんの家でした。
生まれつき体が弱くて、入退院を繰り返していました。
gさんは、厳しくしつけられました。
母親と同じような不始末をしでかさないために。
伯父さん夫婦とgさんの折り合いは、悪かったようです。

gさんは、高校に入学して、転校してきたお兄ちゃんと知り合いました。
孤独だったgさんは、お兄ちゃんの優しさに惹き付けられ、
お兄ちゃんは、gさんの孤独に惹き付けられたのだと思います。
けれど、お兄ちゃんとgさんの交際は、伯父さん夫婦から反対されていました。

心中未遂の原因は、付き合うことを禁じられたせいだ、と周りは見ました。
それが本当だったのかどうか、わたしにはわかりません。

(続く)

●連載293(ここでの連載112)●
2003年7月10日(木)15時40分

その日は、夜遅くまでお兄ちゃんの枕元に付き添いました。
いつもとは逆の立場でした。
わたしの覚えている限り、お兄ちゃんは病に伏せった事がありません。

目を離していると、お兄ちゃんがまた居なくなってしまうかもしれない……
そんな不安がありました。

疲れのあまり、わたしがうつらうつらしはじめると、
眠っていると思っていたお兄ちゃんが、腕を伸ばしてきました。
ゆっくりと頭を撫でられて、目が覚めました。

「お前は帰って休め。体に障る」

「でも……お兄ちゃんが……」

「だいじょうぶだ。もう、死んだりしない」

そう言うお兄ちゃんの口調は、聞いたことがないほど弱々しくて、
胸が詰まりました。

「絶対だよ?」

「約束する」

それ以上わたしには、なにも言えませんでした。
言えば言うほど、お兄ちゃんを追いつめるような気がしました。

翌日、昼間から、父親がわたしを呼びました。

「○○、出かけるぞ、支度をしろ」

「はい」

退院するお兄ちゃんを迎えに行くのだ、と思いました。
けれど、降りたのは、病院の最寄り駅ではありませんでした。
ここは……お兄ちゃんのアパートのある街です。

先に立って歩く父親の後をついていきながら、考えました。
お兄ちゃんのアパートを引き払いに行くのだろう、と。

父親が、立ち止まって振り返りました。

「○○、見覚えはないか?」

とっさに、カマを掛けてきたのだろう、と思いました。

「知らない」

父親は嫌みったらしく口元を歪めて、ふん、と鼻を鳴らしました。

アパート前まで来ると、大家さんらしき人が外に立っていました。
露骨に顔をしかめています。

「××です。この度はご迷惑をおかけしまして」

「困るんですよね、ああいうことされると。
 変な噂が立つと借り手が居なくなるんですよ」

わたしは頭を深々と下げました。

「兄が、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「いや……お嬢ちゃんに謝られてもね……」

大家さんは困った顔をして、わたしに頭を上げさせました。

「○○、俺は大家さんと話があるから、その間に中を片づけておけ」

父親に言われて、わたしは部屋に入りました。
中は、数少ない荷物が散乱して、泥棒が入った後のように荒れていました。
わたしは掃除しながら、お兄ちゃんの鞄を漁りました。

父親に見られてはまずいモノを、先に回収しておかなくてはいけません。
わたしがお兄ちゃんに出した手紙を見られたら、最悪です。
けれど、手紙の束は見つかりませんでした。

お兄ちゃんがわたしの手紙を捨てるわけがない、どこに隠したのだろう?
……と思案していると、父親がドアを開けました。

「○○、終わったか?」

「まだ……もう少し」

「捜し物はこれじゃないのか?」

顔を上げると、父親が背広の内ポケットから手紙の束を取り出しました。
この封筒の色は……わたしの手紙です。
勝ち誇った表情の父親に、返す言葉はありませんでした。

「最初から親を騙していたんだな。こそこそシラを切りやがって。嘘吐きが」

カッと頭に血が集まりました。
大声で叫び出したい気持ちを、こらえました。

「……そうです。ごめんなさい」

「お前のことはもう信用しないぞ」

はじめから、わたしの言葉など歯牙にも掛けなかったんじゃないですか?
一度でも、わたしのことを気にかけたことはあったの? お父さん。
……それは、言葉にはなりませんでした。

それから病院に行って、お兄ちゃんと三人で帰宅しました。
帰りの電車の中は、お通夜の後のような雰囲気でした。

(続く)

●連載294(ここでの連載113)●
2003年7月10日(木)19時45分

家に戻ってきてから、お兄ちゃんは部屋に引き籠もるようになりました。
学校にも心中未遂事件が知れてしまい、自主退学するしかありませんでした。
昼間からベッドに寝ているお兄ちゃんは、抜け殻のようでした。

この頃には、両親はお兄ちゃんに関わらないようになっていました。
娘だけでなく、息子も存在しなくなったかのように。

わたしはお兄ちゃんの部屋にそっと入り、ベッドの側に座りました。
お兄ちゃんは、わたしの方に顔を向けませんでした。

「○○か……」

「お兄ちゃん……gさんのお見舞いに、行かなくていいの?」

「……おじさんが、会わせてくれないんだ」

「お兄ちゃん、訊いていい?」

「……なんだ?」

「gさんって……わたしに似ていると、思わなかった?」

「…………」

お兄ちゃんが、わたしの目を見ました。
悲しいような、ためらうような、慈しむような、そんな目つきでした。

「最初は、そう思った。転校して、出逢って……。
 喫茶店に来て、ひとりで黙って本を読んでいた。
 制服を着ていなかったら、お前と間違えていたかもしれない。
 きっかけは、そんなところだ。
 でもな、中身はぜんぜん違う。
 あいつは……ずっと独りぼっちで、
 自分が独りだってことにも気づいてなかった。
 小さい時から病院と家の往復で、友達も、兄弟もいなかった」

優しげにgさんのことを語るお兄ちゃんの声を聞いて、
胸が断ち切られてしまいそうな痛みを感じながら、
わたしは自分でも意外なほど、落ち着いた声を出せました。

「お兄ちゃんは、gさんのこと、好きなのね」

「隠していてすまん……お前には、お前には、言えなかった。
 あいつのことを、放っておけなかったんだ」

gさんの保護者である伯父さん夫婦に反対されていても、
お兄ちゃんの選んだ人だったら、応援しよう、と思いました。
こんな、魂が抜け落ちたようなお兄ちゃんを見ているぐらいなら。

「このままで……ホントにいいの?
 きっとgさん、病院で心細い思いをしていると思う。
 自分が見捨てられたんじゃないか、って
 放っておいていいの? 寝ていていいの?」

焚きつけるようなわたしの台詞に戸惑ったのか、
お兄ちゃんはうかがうような視線を向けてきました。

「お前は……平気なのか?」

「……そういうこと、訊くんだ。
 お兄ちゃん、残酷だね。
 平気なわけ、ない。
 わたしはずっとずっと、お兄ちゃんを好きだった。
 gさんがお兄ちゃんと出逢うよりずっと前から。
 でも! お兄ちゃんの気持ちを、変えるわけにはいかないよ。
 わたしの気持ちだって、誰にも変えられないんだから……」

涙で、なにも見えなくなっていました。
いつものように、わたしの頭に、お兄ちゃんの手が伸びてきました。
わたしは立ちあがって、お兄ちゃんの手を振り払いました。

「優しくしないで。
 お兄ちゃんが優しくする相手は、わたしじゃない。
 カッコ悪いよ……今のお兄ちゃんは、情けない!」

わたしはお兄ちゃんの部屋を出て、自分の部屋に戻りました。
後から後から、涙が湧いて出てきて、止まりません。
お兄ちゃんは追って来ませんでした。

完璧なお兄ちゃんの偶像に、細かいヒビが入り、仮面が剥がれ落ちました。
中から姿を現したのは、苦悶する男のかおでした。

翌日から、お兄ちゃんはトレーニングを再開しました。
シャワーを浴びてタオルで頭を拭きながら、お兄ちゃんが部屋に来ました。
吹っ切れたような顔をしています。

「お兄ちゃん、元気になった?」

「ああ、ありがとう。お前のおかげだ」

「……gさんに会いに行かないの?」

「そんな怖い顔をするな。考えがある。もう少し待っててくれ」

お兄ちゃんは、以前のように、悪戯っぽく笑いました。

数日経って、お兄ちゃんが外出を誘ってきました。
わたしが連れ出されたのは、近所の喫茶店でした。
そこには、思いがけない人が待っていました。

「F兄ちゃん?」

「○○、大きゅうなったなあ!」

わたしを見て、F兄ちゃんは大げさに相好を崩しました。
驚くわたしを尻目に、お兄ちゃんが挨拶しました。

「F兄ちゃん、お世話になります」

「△△、俺を頼ってくれて嬉しかったで。兄貴は頭が固いからなぁ。
 ほな、早いとこ段取り決めよか」

F兄ちゃんとお兄ちゃんは、駆け落ち計画の相談を始めました。

(続く)

●連載295(ここでの連載114)●
2003年7月10日(木)22時00分

大胆不敵な計画でした。
夜中に病院に忍び込んで、gさんを連れ出そうというのです。

「gさんの家族が『誘拐された』って訴えたら、どうするの?
 また、自殺するかもしれない、って心配するかも……」

「そうなったら拙いけどなぁ。ま、大丈夫やろ。
 置き手紙残しておらんようになったら、家出やと思うやろし。
 『もう死にません』『駆け落ちします』て書いておいたらええ。
 △△が説得しても付いて来んようならしゃあないけどな」

「わたしの役割は、なんですか?」

「別にないけど、○○にだけは話しとかんと、死ぬほど心配するやろ?
 ほとぼりが冷めるまで俺のとこに二人ともかくまうさかい、安心しとき。
 あっちの家族に頭下げるのは兄貴に任せるわ」

不謹慎にも、F兄ちゃんは面白がっているようでした。
お兄ちゃんが、F兄ちゃんに頭を下げました。

「本当に、ありがとうございます」

「可愛い甥っ子のためや……。気にせんでええ。
 死なれるよりは駆け落ちしたほうがなんぼかマシや。
 ホンマにしんどい時は大人に頼らんかい。
 あんまし○○に心配かけたらアカンぞ?」

「はい」

わたしも深々と頭を下げました。

「F兄ちゃん……ありがとう」

F兄ちゃんは照れたように、ええからええから、と手を振りました。
わたしは心の中で、F兄ちゃんが本当のお父さんだったら良かったのに、
と思いました。

計画が実行されているあいだ、わたしはただ待つことしかできません。
これだけは父親に見つからなかったポケットベルが震え、
「セイコウ」の文字が届きました。

突然病院から姿を消したgさんのことで、また騒ぎになりました。
お兄ちゃんも同時に家を出ています。

わたしは父親から再び問い詰められましたが、
駆け落ち計画のことを喋る気は、毛頭ありませんでした。
父親は当然わたしの言葉を信用せず、gさんの家に連れて行きました。

gさんの家は、薄暗い雰囲気でした。奥の畳敷きの間で、
頭の半分禿げたおじさんと、所帯じみたおばさんが待っていました。

父親が「息子は勘当して行方知れずです。どこに居るのかわかりません」
と弁解しました。
わたしは座布団を外して、その場に土下座しました。

「兄がご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

おじさんが怒りの混じった声で言いました。

「あんたなぁ……あの男と同じで礼儀正しいけど、
 ただ頭を下げればいいってもんじゃないんだ」

わたしが頭を上げずにいると、矛先が父親に向きました。

「それにしても、娘を連れてきて代わりに謝らせようなんて、
 あんたは一体どういう了見なんだ?」

「いえその……そんなつもりでは……」

わたしを道連れにして針のむしろに座らせようとした、
父親の目論見は裏目に出たようです。
家に帰るまで、父親はずっと不機嫌さを隠そうともしませんでした。

次の休みの日に、UとVがわたしの見舞いに来ました。
わたしはお兄ちゃんの心中未遂と駆け落ちの顛末を、話して聞かせました。
途中で言葉につかえると、Vがそっと両手で手を握ってきました。

「たいへんだったねー。つらかったでしょー?」

そう言うVのほうが、よっぽど辛そうな顔をしていました。
Uも沈痛な面持ちで、言葉を探しているようでした。

「アンタは、ホンマに……いろんなことがあるなぁ……。
 わたしにはなんて言うたらええのか……想像もつかへん」

「せっかく来てくれたのに、そんな悲しい顔しないで。
 お菓子でも食べよう」

信じられないモノを見る目つきで、Uが尋ねました。

「アンタ……ホンマにそれでよかったんか?」

わたしはすぐには返事ができませんでした。

「……U、昔、わたしが言ったこと、まだ覚えてる?」

「なんや?」

「心の底からこいねがっても、手に入らないモノがある、って話」

「あ、ああ……そんな話、聞いたな。
 あきらめる、てことか?」

Uは、微妙な言い回しをしてきました。

「あきらめる……? そうじゃない。
 この世の誰にも、人の心だけは侵せない、と思う。
 わたしの心を変えられる人は、誰も居ない、それと同じ。
 人の心に、自分の思い通りになってほしい、っていうのは、傲慢だよ。
 それより……。
 自分の好きな人が、幸せになってくれたら、わたしはそれが幸せ」

(続く)

●連載296(ここでの連載115)●
2003年7月11日(金)15時30分

「そんなら……
 ○○、アンタはなんでそんな寂しい目をしてるんや?」

「え?」

「……わたしの目はごまかされへん。
 わたしらの前で遠慮せんでええ。
 泣きたかったら思いっきり泣いたらええやん」

目をつぶっても、涙は湧いてきませんでした。
むしろ、わたしの胸にとりすがって泣いているのは、Vの方です。
Vの背中を撫でながら、わたしは答えました。

「もう、いっぱい泣いたから……涙は出てこないみたい。
 お兄ちゃんが死んじゃったんじゃないか、って思ったら、
 なにが起こっても、それよりはずっと良い。
 ありがとう。二人とも、わたしの代わりに泣いてくれて」

瞳に涙を溜めて、Uも肩を震わせていました。
張り裂けるように、胸が痛みました。ただ、痛いだけです。
わたしは知っていました。本当に胸が裂けてしまうことなどない、と。

半月ほど経って、ポケットベルが震えました。

「テ゛ンワシテイイカ?」

わたしは家に両親が居ないことを確かめてから、返信しました。

「イイヨ」

電話がかかってきて、久しぶりにお兄ちゃんの声が耳に響きました。

「gと二人で、そっちに帰るよ」

「もう、平気かな? お父さん、まだ怒ってるみたいだけど」

「いつまでも、こっちに厄介かけるわけにはいかないさ。
 他に行くところもないしな。
 ガタガタ言うようだったら、また家を出ればいい」

「それじゃ……待ってる」

gさんはどんな人だろう……わたしの胸は不安に締め付けられました。
お兄ちゃんがgさんを連れて帰宅したのは、その翌日でした。

ドアが開く音を聞きつけて、わたしは玄関に急ぎました。

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

gさんがひとりで、三和土に立っていました。
初めてgさんと目が合って、わたしは息を呑みました。

「あ……あの……○○です。はじめまして」

gさんは口を閉ざしたまま、じっとわたしを見つめました。
前に病院でお見舞いしたときにはわからなかった、
底が知れないほど澄んだ、淡褐色ハシバミいろの瞳でした。

周りの空気が帯電したように、ぴりぴりした刺激を感じました。
そのまま立ちすくんでいると、gさんの背後にお兄ちゃんが現れました。

「ただいま、○○。隣のおばさんに捕まっちゃって困ったよ。
 ……? もう自己紹介はしたのか?」

「えっと……これから」

「g、これが妹の○○だ。仲良くしてやってくれ」

不意に、gさんの雰囲気が一変しました。
楽しげな笑みを浮かべ、瞳がきらきらと輝きだしました。

「よろしくね。○○ちゃん」

わたしをちらっと見てから、悪戯っぽくお兄ちゃんの顔を覗き込み、
自然な仕草でうなじに片手を伸ばしました。

「△△クン、○○ちゃんって、わたしに似てるね。
 もしかして、シスコン?」

「なっ、なにを言うんだ?」

「ひょっとして……わたしは彼女の代わりだったりする?」

「そんなわけないだろ。お前と○○はぜんぜん違うよ」

「だったらいいけど、もしそうじゃなかったら……」

「そうじゃなかったら?」

「殺しちゃうかも」

そう言って、お兄ちゃんの首をぎゅっと絞める真似をしました。
わたしは唖然として、二人のじゃれ合いを見ていました。
さっきの、人見知りしていたgさんとは別人のようでした。

「こんなところでバカやってないで、上がろう」

わたしは慌てて二人分のスリッパを用意しました。

「あっ……どうぞ、gさん。いらっしゃいませ」

お兄ちゃんがわたしの方を向いて、言いました。

「○○、いらっしゃいませ、じゃなくてお帰りなさい、だ。
 今日からここは、gの家でもあるんだからな。
 それから、gさん、じゃなく義姉ねえさん、って呼ばなきゃダメだ」

「あ……。ごめんなさい。お帰りなさい…………義姉さん」

お兄ちゃんはgさんの手を引いて、階段を上がっていきました。
わたしの目の前にはまだ、吸い込まれそうになるほど印象的な、
gさんの瞳の残像が映っていました。

(続く)

●連載297(ここでの連載116)●
2003年7月11日(金)18時00分

夜遅く、両親が帰ってきました。淡々とgさんを紹介するお兄ちゃんに、
あんなに怒りをあらわにしていた父親は、沈黙を守っていました。
最後に、「勝手にしろ」と言っただけです。

騒ぎになるかもしれない、と危惧していただけに、拍子抜けしました。
今にして思うと、父親はお兄ちゃんを恐れていたのかもしれません。

夜遅く、お兄ちゃんがわたしの部屋にひとりでやってきました。

「○○、起きてるか?」

わたしは目をこすりながら答えました。

「うん、どうしたの? お兄ちゃん」

「話があるんだ……」

お兄ちゃんは言いにくそうに、言葉を切りました。

「なに?」

「さっきはきつく言ってごめんな」

「なんのこと?」

「『義姉さん』って呼べって言ったことだ」

「別に……気にしてない。当たり前のことだから」

「お前とgは歳も近いけど、一応、けじめだからな。
 あいつは……人付き合いが下手なんだ。
 田舎でも上手くやっていけなかった。
 難しいとは思うけど、できるだけ立ててやってくれないか」

「うん、わかった。
 でもお兄ちゃんとは、すごく仲が好さそうに見えたよ?」

「あれはなぁ……」

お兄ちゃんが苦笑いしました。

「お前は、gのことどう思った?」

「まだ、話をしていないからわからないけど……すごく印象的。
 わたしとはぜんぜん違う。なんだか怖いぐらい魅力的だった」

「それだけならいいんだけどな……。
 あいつは入学した時から、良い意味でも悪い意味でも目立ってた。
 良い時は誰でも惹き付けられる。
 悪い時は……周りをぜんぜん見ていない。
 気分の変化が激しいんだ。
 あいつはずっと独りぼっちだったからな……。
 無意識に人を惹き付けることを覚えたんだと思う。
 それでも、あいつは誰とも深くは交わらなかった。
 俺と似たところがある」

「お兄ちゃんと……?」

「俺よりもっと激しいけどな」

言われてみれば、うなずけるような気がしました。
誰にでも好かれるお兄ちゃんの人当たりの良さの背後に、
見えない聖域があることを、わたしは薄々感じとっていました。

「この家では三人で暮らすようなもんだ。
 俺は働きに出なくちゃいけない。
 不義理をかけたけど、謝ってまた喫茶店で働かせてもらうつもりだ。
 料理人の修業も始めたい。
 俺が留守のあいだ、gをお前に見ていてほしいんだ。
 お前には言っておくけど、あいつは精神を安定させる薬を飲んでる。
 気違いってわけじゃないぞ。
 暴れたりはしないけど、ひどく落ち込むことがあるからな……。
 心配なんだ。お願いできるか?」

頼める相手がわたししかいないことは明白でした。
お兄ちゃんから熱心に頼み込まれたら、答えはイエスしかありません。

「わかった。できるだけ様子を見てる」

お兄ちゃんは見るからにホッとした表情になりました。

「すまん……いや、ありがとう」

こうして、実質的に三人での生活が始まりました。

夜遅く、わたしはなにかの物音で目が覚めてしまいました。
起き上がって、なんだろう?と耳を澄ませると、人の声らしきものが
聞こえてきました。心臓がドクン、と跳ね上がりました。

ひそひそ話す声ではありません。わたしにも判りました。
初めて生で耳にする、セックスの時に女の人が出す声でした。

「あっ、あっ、あっ、ああーっ、△△クン……」

すすり泣くような、悲鳴にも似た声が、細く長く、切れ切れに続きます。
お兄ちゃんの声は聞こえません。

わたしは布団の中で、宙に浮いているような浮遊感と、
地の底に沈みこむような落下感を、同時に体験しました。

暑いのか寒いのか、自分が今何をしているのかも、わかりません。
息が肺に入ってこなくなって、胸が激しく痛みました。
どれぐらいそれが続いたのか……永劫の責め苦に思えました。

気が付くと、いつの間にか声は止んでいました。
わたしは暴れる心臓を押さえましたが、なかなか寝付けませんでした。
恋人同士なら、当たり前のことなんだ、と自分に言い聞かせました。

お兄ちゃんは午後からバイトに出かけますが、
gさんは高校をやめていたので、ずっと家に籠もっていました。
お兄ちゃんの部屋から出てくることは、めったにありません。

わたしは体調の良い時に学校に行き、あまり良くない時は家で寝ていました。
思い切って話しかけようにも、なかなか接点がありません。
籠もりっきりでは健康に悪いと思い、散歩に誘うことにしました。

(続く)

●連載298(ここでの連載117)●
2003年7月11日(金)22時50分

休みの日の昼過ぎでした。お兄ちゃんはバイトに行っています。
お兄ちゃんの部屋のドアをノックして、少し待ってから開けてみると、
gさんはお兄ちゃんのベッドでまだ寝ていました。

ちくり、と胸に痛みが走りました。
わたしも寝たことのあるこのベッドの上で、
お兄ちゃんとgさんがセックスしている想像図が、一瞬浮かびました。

「義姉さん」

「ん、ふ……」

まだ寝惚けているようでした。
gさんがひどい低血圧で、朝に弱いということは知っていました。
もともと内臓が弱く、入院した時の後遺症もあったのでしょう。
昼過ぎまで寝ていても、不思議には思いませんでした。

gさんがわたしに気づいて、ぼうっとした顔を向けました。

「おはようございます。
 散歩に行くんですけど、いっしょにいかがですか」

「……うん」

意外にも、あっさりOKでした。
断られるかもしれない、と思っていました。

わたしは自分の部屋に戻って、着替えの服を取ってきました。
外は肌寒いのに、gさんはあまり服を持ってきていなかったのです。

「どこに行くの?」

寝起きだけあって、話が通じていなかったようです。

「お散歩です。ついでにお買い物してもいいですけど。
 この辺りのお店の場所も、知っておいたほうがいいですよね?」

「そうだね……先にシャワー浴びてくる」

玄関で待っていると、gさんがお風呂場から出てきました。
少し薄い色の髪が濡れています。
クリーム色のカーディガンがよく似合っていました。

お化粧はしていないはずなのに、桜色の唇が艶めいています。
病院で寝ているgさんを見た時は、自分とよく似ていると思いました。
目を開いて動いているgさんは、髪型や顔立ちや背格好は似ていても、
わたしとはまるで別人でした。

肩を並べて、家の近所の道を、ゆっくりと歩きました。
どんな話をどうやってしたらいいのでしょう?
gさんがなにを考えているのか、見当も付きません。

ちらりと横目で見ると、猫のようにしなやかに歩くgさんが、
どこか人間ばなれした存在に見えました。

「わたしの顔が珍しい?」

不意に話しかけられて、ギクリとしました。

「髪の色も目の色も薄いもんね。変わってるでしょ?」

明るい瞳が冬の日射しを浴びて、くるくると動きました。

「いえ……そういうわけでは」

「気にしなくていいよ。慣れてるし。
 生まれつきなにか欠けてるみたいなんだ、わたしの体は。
 だからあっちこっちが時々ポンコツになる。
 ○○ちゃんはいいね。
 他人じゃないみたいな顔をしているのに、髪も目も黒くて」

こんなに綺麗な自分の瞳が嫌なのか……と意外でした。

「そんな……。わたしも体は弱いです。
 義姉さんのほうが、ずっと素敵です」

「自分に似た顔の人から言われても、自慢みたいだよ」

gさんはうっすら笑いました。

「それに、優しいお兄ちゃんがいるのも羨ましい」

「え?」

「○○ちゃん、お兄ちゃんのこと、好きでしょ?」

ずばりと言われて、恋心を見抜かれていたのかと、慄然としました。

「○○ちゃん、△△クンを見る目が優しいもん。
 小さい時からずっと可愛がられてたんでしょう?」

思い過ごしだったらしい、とホッとしました。

「……はい」

「わたしも、あんなお兄ちゃんがいたらなあ……」

そのお兄ちゃんを恋人にしているgさんにしては、
ずいぶん贅沢な言い草だと思いました。

「○○ちゃんは、わたしのこと嫌いよね?」

「ええ? いえっ、そんなことは」

「わたしが邪魔じゃないの?」

「邪魔だなんて……兄が選んだ人なら、それが一番だと思います」

「やっぱり、お兄ちゃんが中心なんだね」

嘲笑されているのかどうか、微妙でした。
もしかしたら、意地悪をされているのだろうか、と思案しました。

(続く)

●連載299(ここでの連載118)●
2003年7月12日(土)23時30分

もう、ずいぶん長いあいだ歩いていました。

「そろそろ……戻りましょう」

そう言うと、gさんが立ち止まって振り向きました。
さらさらと風になびく栗色の髪。雪花石膏アラバスターを思わせる白い顔。
淡い色の瞳が、まばたきもせずわたしを見据えました。

「○○ちゃんは、なんのために生まれてきた?」

突然の話題の転換に、わたしは付いていけませんでした。
gさんと話す時に気後れしていた理由が、やっと解りました。

数秒後のgさんを、わたしには予測できないのです。
gさんは、わたしが初めて知るタイプの、謎に満ちた存在でした。

「……生まれてきた、目的ですか?」

「目的というか、価値。なんの価値もない人生なんて、無意味よね」

「生まれてきたこと自体には、意味はないと思います。
 生まれてきた者は、ただ、生き続けようとします」

わたしの答えが気に入らなかったのか、
gさんは、本気で蔑むように目を細めました。

「生き続けるのが目的だったら、動物と同じね。それこそ無意味」

「そうかもしれません。でも……死んでしまったら、それで終わりです」

言いながら、微妙な領域に踏み込みすぎたかな、と危惧しました。
けれど、gさんに本音を隠してはいけない、と思いました。

「意味は、あるのかもしれないし、ないかもしれません。
 価値も、誰が判定するかによって、違ってくるでしょう。
 でも、生まれてきて良かった、と自分で思えれば……
 それで十分だと思います」

その答えがgさんを満足させたのかどうか、わかりません。
会話は続かず、gさんが先に立って家路に就きました。

gさんの気分は、前兆なしに激変するのです。
兆しがあったとしても、わたしには読みとれませんでした。
青白く光る、抜き身の刃を目の前にしているようで、
わたしは一瞬も気を抜けません。

お兄ちゃんが、gさんと二人きりで居る時、
どうやって話を続けているのか、想像も付きませんでした。

しばらくして、階段を上ってお兄ちゃんの部屋の前に来ると、
gさんの楽しそうな笑い声が廊下まで響いてきました。

わたしは、ついつい足を止めて耳を澄ませました。
けれど、聞き取れるのはgさんの高い声だけで、
お兄ちゃんの低い声は、なにを言っているのかわかりませんでした。

またある時は、お兄ちゃんの部屋から言い争う声が聞こえてきます。
やがて、すすり泣く声がして、最後にセックスの声に変わります。
どの声も、わたしの心を揺さぶりました。

お兄ちゃんとgさんが仲良くしていると、安心するような、
寂しいような、複雑な気持ちが胸を締め付けます。
喧嘩をしていると、不安と焦燥に胸を灼かれます。
セックスしていると……もう、なにも考えられなくなります。

ある日、わたしが学校から帰って居間に入ると、
gさんがソファーに座っていました。

「ただいま、義姉さん」

振り向いたgさんの顔には、一切の表情がありませんでした。
思い詰めたようなその顔つきに、わたしは立ちすくみました。

「○○ちゃん……神様を信じる?」

突然の重い問いかけに、わたしは逃げ場をなくしました。

「……信じません」

「神様は居ないと思うの?」

「もし居たとしても、神様は人間に関心がない、と思います。
 あらゆるモノの中で、人間だけが特別扱いされる理由がありませんから」

「そう……」

gさんはわたしに興味を失ったかのように、ぼんやりしています。
わたしは答え方を間違えたかな……と思いました。

目をそらせずにいると、gさんが幽霊のようにすっと立ち上がり、
わたしの脇を通り抜けました。

不安に駆られて、わたしはgさんの後を付いていきました。
すると、gさんはトイレに入っていきました。

そのままわたしは、トイレの外で待ちました。
トイレから出てきたgさんと、目が合いました。
gさんの顔に、一つの紛れもない表情が生まれました。

「トイレにまで監視がつくのね」

見開いた瞳の奥から、噴きこぼれそうな剥き出しの憎悪が覗いていました。
歩み去ったgさんを、わたしは追うことができませんでした。
わたしは自分の部屋に戻り、ベッドに身を投げました。

目をつぶっても、体が小刻みに震えて止まりません。
心配だっただけなのに……と思うと、目の奥から涙が湧いてきました。
あれほど純粋な憎悪に晒されたのは、初めてです。

遅く帰ってきたお兄ちゃんに、わたしは小声で呼びかけました。

「お兄ちゃん……gさんの様子が、おかしいみたい。
 なにか、あった?」

仕事帰りのお兄ちゃんは、心当たりがあるのか、疲れた顔をうなずかせました。

「あいつは……ある宗教の信者なんだ。
 自殺しようとしたことが罪だって、悩んでる」

(続く)

●連載300(ここでの連載119)●
2003年7月13日(日)21時00分

「……お兄ちゃんも、信じてるの?」

「いや……信じられれば良かったんだけどな。
 俺には、神様は信じられない」

お兄ちゃんは力無く笑いました。

「わたし、お兄ちゃんが心中しようとした、って聞いて、ショックだった。
 でも助かって、お兄ちゃんがちゃんと後悔しているんだったら、
 それで良いと思う。くよくよしても、しょうがないんじゃないかな?
 これから……幸せになればいい、と思う」

「そうだな、俺もそう思う。
 あいつも割り切ってくれたらいいんだけど……」

突然お兄ちゃんの目が、驚愕に見開かれました。
ハッとして振り返ると、目の前にgさんの顔がありました。
いつの間に忍び寄って来たのか、完全に虚をかれました。

「あっ、あの……」

激情に取り憑かれたかのような、gさんの形相に呑まれて、
取り繕う言葉が出てきません。

「こそこそとっ! わたしの悪口言ってたんでしょっ!」

罵声が雷鳴のようでした。その衝撃に、わたしは棒立ちでした。
不意に目の前に火花が散り、左の頬をたれたのだ、と遅れて気づきました。

「なにをするんだっ!」

お兄ちゃんが、慌てて背中でわたしをかばいました。

gさんはわたしたちを睨みつけ、音を立てて階段を上がっていきました。

「だいじょうぶか? ○○」

「うん」

わたしが反射的に答えると、お兄ちゃんは首を巡らし、
一瞬躊躇してからgさんの後を追いました。

わたしは頬を手で押さえて、そのまま痺れたように立っていました。
大変なことになってしまった……と思いました。

しばらく待って、2階に上がりました。
耳を澄ましてみても、お兄ちゃんの部屋は静まりかえっていて、
物音一つ聞こえてきません。
長い一夜でした。

翌朝、わたしが台所で遅い朝食の支度をしていると、
誰かが階段を下りてきます。
足音から、gさんだと判りました。

行ってみると、gさんが玄関のドアに手を掛けたところでした。

「……義姉さん?」

gさんは振り返ろうとせず、そのまま外に出て行きました。
尋常でない雰囲気に、後を追おうか迷っていると、
お兄ちゃんが2階から下りてきました。

「お兄ちゃん、おは……」

お兄ちゃんはわたしの横を素通りして、gさんを追って行きました。

わたしが付いていってもどうにもならない、とは思いましたけど、
その場で待っていると気がおかしくなりそうでした。
サンダルに履きかえて、わたしも外に出ました。

門のすぐ外に、立っているお兄ちゃんの背中が見えました。
回り込んで、お兄ちゃんの顔を覗き込みました。

「お兄ちゃん……?」

お兄ちゃんは憔悴しきった顔で、遠くを見ていました。
放心した瞳から、涙が頬を伝っています。
人目もはばからず泣き濡れるその姿に、わたしは物理的な衝撃を感じました。

「お兄ちゃん……義姉さんを、追わなくていいの?」

ついに、お兄ちゃんはオゥオゥと、声を上げて泣き出しました。

「俺には……引き留められなかった、んだ……。
 あいつは、出家するそうだ」

「ええっ?」

お兄ちゃんは、身も世もなく泣いています。
大きな体が、子供のように小さく見えました。
わたしは正面から、壊れ物を抱くように、そっと背中に手を回しました。

「お兄ちゃん、わたしはお兄ちゃんの味方だからね。
 なんでもするから、なんでもするから、ね、ね?」

どうしたらお兄ちゃんを慰められるのかわからなくて、
わたしも支離滅裂でした。
お兄ちゃんはわたしの頭を抱くようにして、泣き続けました。
手を離したら、お兄ちゃんがどこかに消えてしまうような気がしました。

やがて、お兄ちゃんが上体を起こして、もぎ取るように、
わたしから離れました。
お兄ちゃんの両目は、泣き腫らして真っ赤でした。

「お兄ちゃん……?」

「○○……ありがとう。でも……ダメだ」

「ダメって、なにが?」

「俺は……もう一度この家を出て行く」

「……! ……どうして?」

「このままだと……お前を利用してしまいそうだ……gの代わりに。
 そんなのは、酷すぎる」

「……いいよ。わたしは……利用されても」

(続く)


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