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お兄ちゃんとの大切な想い出 連載281〜290

「お兄ちゃんとの大切な想い出」に掲載した連載281〜290(ここでの連載100〜109)を抽出したものです。番外編もあります。(管理人:お兄ちゃん子)

271〜280
281282283284285
286287288289290
291〜300

●連載281(ここでの連載100)●
2003年6月28日(土)17時00分

自分の耳が信じられなくて、全身を硬直させたわたしを残し、
父親は背を向けて立ち去りました。

わたしはそのまま、じっと身じろぎひとつしませんでした。
病気の娘を「廃人」呼ばわりする、人の親なんて、ありえない……
今のが夢であってくれたら……と念じても、あれは、紛れもない現実でした。

吐き気と、眩暈が襲ってきて、どっと冷や汗が噴き出してきました。
体がガクガクと震えだして、両腕で肩を抱きしめても止まりません。
久しぶりの、神経症の発作でした。
わたしは暗い部屋の天井を見つめて、1時間ほど呻吟しんぎんしていました。

わたしは父親を嫌っていました。その下劣さを。その冷酷さを。
けれど、心のどこかでその時まで信じていたのです。
父親が、娘を本当に見捨てることなんてあるはずがない、と。
態度には表れなくても、わたしを愛してくれているはずだ、と。

歯をカチカチ鳴らしながら、わたしは悟りました。
父親にとって、わたしはもう何の価値もない石ころ同然の存在だと。
息をしていても、もう死人としか見えていないのだ……と。
わたしは自分の甘さを、心の底から思い知り、ひっそりと自嘲しました。

夜遅く、わたしの様子を確かめに来たお兄ちゃんが見たものは、
冷たい汗でシーツを濡らし、目尻に涙の跡を留めたわたしでした。
お兄ちゃんは、わたしの表情に驚いたことでしょう。

「○○、どうした? なにかあったのか?」

わたしはまだ、顎をうまく動かせませんでした。

「……汗、かいたみたい……寒い」

毛布の下に手を差し入れて、じっとりと湿っているのに気づいたお兄ちゃんは、
シーツを交換し、わたしを着替えさせました。
人形のようにこわばった体を、優しくいたわるように。

抱きかかえられてお兄ちゃんに背中をさすられ、
洗濯したシーツとパジャマに包まれて、わたしは体温を取り戻しました。

「眠れるまで付いているから、安心しろ」

「…………」

お兄ちゃんに手を握られて、わたしは目蓋を閉じました。
けれど、脳裏にはずっと、父親のつぶやき声が響いていました。
暗闇の中に立っていた父親の姿、そしてあの言葉を、
わたしは一生忘れられないだろう……と意識しました。

たとえ細かい表情や口調が失われることはあっても、
陰画のようにわたしの記憶に焼き付いて、永遠に消えることはないだろう、と。

わたしを変える力を持っているのは、お兄ちゃんしかいない、
この時までわたしは、そう信じていました。それは間違いでした。
父親は、消せない刻印を、わたしに打ちました。
胸の奥を焼き尽くすような、憎悪という感情を、初めて知りました。

わたしがいつ夢を見ない眠りに落ちたのか、覚えていません。
翌日、わたしは遅く起きて、ベッドから抜け出しました。
家には誰も居ませんでした。

父親の部屋には、鍵のかかった引き出しがありました。
前に掃除をした時、スペアキーが机の裏に張り付けてあるのに気づきました。
額の裏に、数字の組み合わせの書いたメモが貼ってあるのにも。
その時は、父親の机を荒らす気は起こりませんでした。今は違います。

スペアキーを使って引き出しをそっと開けました。
一番上の引き出しに、数字の組み合わせで鍵をかけるタイプの、
手提げ金庫が入っていました。

その時の数字の組み合わせを暗記して、メモに書いてある数字に合わせました。
金庫の中には、通帳や印鑑、証書の束が入っていました。
自分の鼓動の音が大きく聴こえました。

定期預金の通帳を開いた時、もう驚きはありませんでした。
記載されていた金額は、誤って請求されたわたしの入院費の額を、
大きく上回っていました。

「やっぱり……」

予感が当たっただけなのに、その場で地の底に沈み込むような気がしました。
わたしの命には、この通帳ほどの価値もなかったということなのでしょう。
わたしは細心の注意を払って、金庫とスペアキーを元通りに仕舞いました。
自分の部屋に戻る力を振り絞るのに、意志のありったけが必要でした。

それから間もなく、わたしの病状は悪化しました。
父親の言葉がどれぐらい影響したのかは、何とも言えません。
リトマス試験紙のような簡易検査キットの色が、赤血球++++を示していました。
わたしはその事実を静かにお兄ちゃんに告げて、入院の支度をしました。
半月ぶりに内科病棟に舞い戻ることになりました。

病院に向かうバスの中、お兄ちゃんはわたしにどんな言葉をかけたらいいか、
迷っているようでした。わたしの病気を黙って見ているしかないのが、
苦しかったのかもしれません。

「お兄ちゃん」

「ん?」

顔を上げたお兄ちゃんに、わたしは微笑みかけました。

「お兄ちゃんのせいじゃない。
 わたしが無理に退院したせいだから……」

少なくとも、これっぽっちもお兄ちゃんの責任ではありませんでした。
父親とのことは、お兄ちゃんには秘密にしておくつもりでした。
真実を知ったら、お兄ちゃんが荒れ狂うだろうと思ったのです。

「うん……早く、治るといいな」

「そんな顔してたら、お兄ちゃんの方が入院するみたい」

「毎日見舞いに行くよ」

「お兄ちゃんも受験生でしょ? 無理しなくていい。
 わたしも受験生だけど、来年はもうあきらめてる」

「お前だったら、受験勉強なんてしなくても受かるんじゃないか?」

「世の中、そんなに甘くないと思う」

(続く)

●連載282(ここでの連載101)●
2003年6月29日(日)22時50分

病室は6人部屋で、他のベッドもみんな埋まっていました。
お兄ちゃんが丸椅子から立ちあがって、小声で言いました。

「何か持ってきてほしいものはないか?」

「うん、考えとく。たいてい売店で揃うから」

病室のベッドに横になると、ほっと落ち着きました。
自宅に居るよりも、のびのびと背筋を伸ばせるような気がします。
看護婦さんも、新人さん以外はほとんど顔なじみでした。
わたしは病院での生活に、慣れすぎていたのかもしれません。

「それじゃ、またな」

「またね、お兄ちゃん」

ひとりになったわたしがうつらうつらしていると、
主治医のO先生がやってきました。
見たことのない顔の、中年の太った優しそうなおばさんといっしょに。
病院で患者さんの相談に乗るのが仕事だと、おばさんは自己紹介しました。

「○○ちゃん、入院費のことはもう心配しなくていいからね。
 特定疾患補助制度というのがあって、
 重い病気だと行政から補助金が出るの。
 手続きが終わったら、保険診療の分は全部無料になるから」

小児科の慢性腎炎は難病の一種で、特定疾患に該当することを、
わかりやすく説明してくれました。
先日の退院騒動があって、O先生が手を回してくれたようです。

「ごめんなさいね。もっと早く手続きを申請すればよかった」

そう言って、O先生がわたしに頭を下げました。

「いえ、先生、色々とありがとうございました」

あの父親に医療費のことで何も言われる心配がなくなって、
わたしは心が軽くなりました。

お兄ちゃんの他に見舞いに訪れるのは、UとVぐらいでした。
3年生になってからは、学校にも数えるほどしか行っていません。
クラスメイトにも担任の先生にも、まだ馴染んでいませんでした。

しばらく経って、UとVが連れ立ってお見舞いに来ました。
千代紙をたくさん持ってきていて、枕元で鶴を折りはじめました。

「なにしてるの?」

「見てわからんか? 千羽鶴を折ってるんや。アンタも暇やったら手伝い」

Vは折り紙に熱中していました。
お見舞いされる本人が折ってもいいものだろうか、と疑問が浮かびましたけど、
暇つぶしにはちょうどよかったので、三人で折りました。

Uが手を動かしながら、つぶやきました。

「あんまし来れへんでごめんな」

「いいよ、二人とも。受験勉強で忙しいんでしょ?
 新しいクラスで友達できた?」

「うん、新しい友達はできたけど、やっぱし昔のわたしらみたいにはいかんな。
 みんな受験で目の色変わってるしな。アンタとUは、特別やで」

「ありがと……わたしもそう思ってる。VはXさんに勉強みてもらってるの?」

「うん……」

Vの顔が見る見る赤くなりました。鶴を折る手つきまであやしくなっています。
わたしの失恋を知ってから、VはXさんのことをあまり話さなくなっていました。
わたしに気を遣っていたのでしょう。

口数が減ると、Vは文句のつけようのない美少女でした。
高校生にも見えるくらい大人っぽい体つきになっていて、
匂うような乙女の色気がありました。

わたしはわざと、茶化すように言いました。

「Uも大変ね。いつもVとXさんのラブラブに当てられてるんでしょ?」

「そうでもないで。前ほどベタベタせんようになったわ。
 前はホンマ暑苦しかったもんな〜」

Vがぷっと膨れて、無言でUを睨みつけました。
わたしは取りなすために、Vの味方をすることにしました。

「妬かなくてもUには優しいお兄さんがいるじゃない。
 受験勉強の手伝いにこき使ってるんじゃない?」

すると、Uの顔が渋いお茶を飲んだようにしかめられました。
Vの表情も、一転して曇りました。

「いや……まぁ、その、な」

言いにくそうに口を濁すUを見ていると、
わたしは何かまずいことを言ってしまったのか、と不安になりました。

「あのな……アンタにはまだ話してへんかったけど、
 兄ぃはもう家におらへんねん」

「えっ?」

「第一志望の大学に滑ってしもて、実家のある地元の滑り止めに入ったんや。
 今は婆ちゃんの家に下宿してる」

「知らなかった……」

「ごめんな、隠すつもりやなかったんやけど、アンタ春頃バタバタしてたやん。
 大変そうやったから、気を遣わせたらあかんと思うてな。
 ちょくちょく帰ってくるて言うてたしな」

「そうだったの、U、寂しいね」

「ホンマに……あんなダメ兄貴でも、おらんようになると寂しいもんやな。
 アンタの気持ちが少しわかったような気がするわ」

(続く)

●連載283(ここでの連載102)●
2003年7月1日(火)9時00分

「そんなこと言って……良いお兄さんじゃない」

「『お兄ちゃん』よりもか?」

逆襲のつもりか、からかうようにUが言いました。

「お兄ちゃんは別」

「即答かい! ホンマにブラコンなんやからアンタは」

Uと話していると、どうしてもしんみりした雰囲気にはなりません。
VはVで、我関せずといったふうにせっせと鶴を折っています。

「V! アンタもなに知らんぷりしてるんや」

「え〜? わたしにはお兄ちゃんいないしー」

「いっつもXさんのこと『おにーちゃん』て言うてるやんか」

「『おにーちゃん』は『おにーちゃん』で『お兄ちゃん』じゃないもん」

「同じや!!!」

「V、別に気を遣わなくていいよ。
 Vが幸せだとわたしたちも嬉しい。
 もっと、Xさんの話聞かせて」

「え〜〜〜? だって恥ずかしいー」

Vははにかんで、体をくねくねさせました。
確かに可愛らしいのですが、ちょっと不気味です。
Uがニヤリ、としました。

「ははぁん、そんならわたしの見てる時よりもっと恥ずかしいことを、
 陰でやってるわけやな?」

Vの挙動がますます不審になっていきます。
折ったり伸ばしたり、手元の折り紙はもう無茶苦茶です。
わたしはカマを掛けてみることにしました。
……といっても、V相手にあまり遠回しだと通じません。

「初めての時は、やさしくしてくれた?」

突然Vが立ちあがろう……としたところを、
いつの間にか後ろに回っていたUが覆い被さるようにして、
逃亡を未然に阻止しました。
UがVの耳元で囁きます。

「親友に隠し事はアカンなぁ。吐いたら楽になるでぇ」

「う〜〜」

「V……わたしには話してくれないんだ……」

わたしが気落ちしたふりをして見せると、Vも観念したようです。
身をよじらせていたのをやめて、ぽつりぽつりと語りはじめました。
よほど恥ずかしいのか、ずっと目が泳ぎっぱなしです。

「あ、あのね……はじめはとってもやさしくてー……
 だけどだんだんイジワルになってきてー……すごかったー……」

Uがぼそっと言いました。

「ケダモノ?」

わたしもつい、漏らしました。

「鬼畜?」

「ちーがーうー! いっぱいいっぱい『愛してる』っていってくれたのー。
 ……しあわせだったよー」

「うわ、すごっ」

「それは……羨ましいかも」

Vは両の手のひらを頬に当て、見開いた瞳がきらきらと輝いていて、
まさに幸せの絶頂に居るようでした。
弾けそうな喜びに包まれたVを見るのは、この時が最後だったかもしれません。

「それで……具体的にはどんなふうに?」

わたしはぐぐっと身を乗り出して、聞く気満々でした。
カーテンで仕切られた病室の一角が結界と化したかのような、
異様な雰囲気がその場を支配していました。

「えーーそんなのいえないーーー!」

Vが甲高い声で絶叫すると、カーテンがさっと引き開けられて、
年配の看護婦さんが顔を覗かせました。

「ちょっと、病室では静かにして。寝ている人も居るんですよ」

「はい……ごめんなさいー」

肝心なところで邪魔が入って、結界はあっさり破れました。
わたしとUはアイコンタクトを交わしました。

(いつか根掘り葉掘り聞き出さなくちゃ)

(もちろんや!)

入院しているあいだ、わたしのベッドの周りが賑やかだったのは、
こんなふうにUとVが居る時だけでした。
お兄ちゃんが来ている時は、静かな、微妙に張り詰めた空気が流れました。

お兄ちゃんはあれこれと話をしたり、冗談を言ってわたしを笑わせました。
けれど、ふと会話が途切れると、吸い寄せられるように、
互いの顔を黙って見ていることが多かったように思います。

何度見ても、お兄ちゃんの顔を見飽きることはありませんでした。
今思うと、わたしはいつも、やがて確実に訪れる別れの予感を、
心に抱いていたのかもしれません。

(続く)

●連載284(ここでの連載103)●
2003年7月2日(水)14時40分

1ヶ月ほど過ぎて、わたしの病状は徐々に快復してきました。
でも、いつまで経っても退院の許可が下りません。
同じ病室の他の患者さんは次々と退院していき、
わたしが一番の古株になっていました。
不審に思っていると、O先生が回診の時に説明してくれました。

「普通だったらもう自宅療養に切り替えるところなんだけどね。
 あなたの場合は……自宅に戻ると悪化する可能性があるから。
 今退院しても、どうせ1学期の間は学校には通えないし、
 もっと体力が回復するまでここに居なさい。
 ベッドに空きがなくなったら退院してもらわないといけないけど」

「わかりました。ありがとうございます」

O先生はわたしの家庭の事情を察しているようでした。
看護婦さんたちも、以前のQさんほどではないにしても、
とても親切にしてくれました。

その後、見舞いに来たお兄ちゃんにO先生の話をしました。
お兄ちゃんはうなずきました。

「そうだな……先生の好意に甘えたほうがいい。
 俺たちはいつも、外ではいい人に巡り会うなぁ……」

両親に関係する話題になると、お兄ちゃんの眼差しは微妙にかげります。
わたし以外の人は、それに気づかないかもしれません。
太陽に雲がかかったように、瞳が暗くなるのです。

お兄ちゃんは、家でどんな表情をして、あの父親と対峙たいじしているのだろう?
想像するだけで寒気がしてきました。
きっと一言も口を利かず、父親の勝手な小言を聞き流しているのでしょう。
家に居ることで、お兄ちゃんの魂がどんどん磨り減ってしまうような、
そんな気がしました。

わたしのために、お兄ちゃんは田舎での生活を捨てて帰ってきてくれました。
その代償が、家の中で揉め事を起こさないように、
あの父親の理不尽なお説教に耐えることなのかと思うと、
なんともいたたまれない気持ちになります。

「お兄ちゃん……学校でお友達できた?」

お兄ちゃんの顔が、得意そうに輝きました。

「おう、3年になってからの転校生は珍しいせいかな、
 ちょっとしたスター気分だ。
 どういうわけか下級生にまで名前を知られてるみたいだ」

確かに……お兄ちゃんだったら目立つだろうな、と思いました。
絶対に間違いなく、男子からも女子からも好かれるでしょう……。

「ま、俺のことは心配すんな。お前と違って要領がいいからな。
 お前は……3年生になってからほとんど病院暮らしだもんな。
 新しい友達は無理か……。
 高校生になったら、また友達もできるさ。
 UちゃんやVちゃんとはまだ親友なんだろ?」

「うん、二人とも受験で忙しいのにお見舞いに来てくれる。
 最高の友達」

寝ているわたしの髪を、お兄ちゃんが慈しむようにそっと撫でました。

「よかったな。良い友達は宝物みたいなもんだ。
 俺には友達がたくさんいるけど、最高って言えるのは何人かな……。
 本心を明かせる友達は、要領が良くてもできるもんじゃないからな。
 そんな友達が二人も居るお前は、運が良いと思うぞ」

お兄ちゃんの口調に、ほんの一瞬だけ寂しさが垣間見えたような気がしました。
わたしは無言で、手招きしました。
ん?と不思議そうにしながら、お兄ちゃんがベッドの上に身を乗り出しました。

わたしはお兄ちゃんの真似をして、目の前のふわふわした癖毛を撫でました。
お兄ちゃんはくすぐったそうにビクリと首をすくめましたが、
そのまま黙って目蓋を閉じ、撫でられるままにしていました。

「ありがと……○○」

「…………」

わたしにできることは、それぐらいしかありませんでした。
胸騒ぎを抑えながら、わたしは自分の無力さを噛みしめました。

時が過ぎて、夏休みに入りました。
ずっと入院していたわたしには実感がありませんでしたけど。
そろそろ退院の予定が立ちそうでした。

そんなある日、お兄ちゃんが病室を訪れました……強張った表情で。
一目見て、わたしは来るべき日が来た、と直感しました。
お兄ちゃんの目は、鬼神のようにぎらぎらと燃えていました。

丸椅子に座り込んで、口をつぐんでいるお兄ちゃんに、
わたしはおそるおそる声をかけました。

「お兄ちゃん……どうかした?」

お兄ちゃんは歯を食いしばり、わたしを横目でじろりと見ました。

「……どうして……言ってくれなかったんだ?」

「……!」

「さっき、看護婦さんから話を聞いたよ。
 どうして一度治りかけてたお前を無理やりに退院させたのかって。
 取り返しのつかないことになるかもしれなかったらしい。
 お兄さんがしっかりしてなくちゃダメだって、責められたよ。
 あの……クソ野郎が……許せねぇ」

父親のしたことは、すっかりバレていました。
わたしは、ずっと考えていたある決心を、否応なく固めました。

(続く)

●連載285(ここでの連載104)●
2003年7月3日(木)17時15分

お兄ちゃんの顔色は怒りのあまり蒼白でした。
まるで、青白い炎が内側で燃えているようでした。

これ以上隠し事をしても……なんにもなりません。
わたしは心臓が氷に閉ざされているような、胸苦しさに襲われました。
痛む胸を押さえながら起きあがり、言葉を吐き出しました。

「お兄……ちゃん」

お兄ちゃんは、危険な獣のように歯を噛んでいました。

「わたし……わかっちゃった。わかっちゃったよ。
 お父さんには、わたしはもう、どうでもいいんだって」

万力で締め付けられたように硬くなっているわたしの背中を、
お兄ちゃんが撫でさすりました。
それでも、呼吸が乱れ、言葉が震えるのを抑えられませんでした。

「お父さんは、わたしを……『廃人』だって言った」

「はいじん?」

意外な言葉だったのか、お兄ちゃんが聞き返してきました。

「人間として、もう役に立たなくなった人のこと」

「違う、お前は廃人なんかじゃない!」

「わたし、お父さんの書斎を荒らした」

「え?」

「金庫を開けたら、中に通帳が入ってた。
 お父さん、お金に困ってたわけじゃなかったんだ。
 ただ、わたしのために使いたくなかっただけ」

「畜生……」

わたしの背中に回された手に、力が籠もりました。
お兄ちゃんにも、わたしにかける言葉が見つからないようでした。

「お兄ちゃん、わたしに、考えがあるの。
 お願いなんだけど、聞いてくれる?」

「考え……? 言ってみろ」

次の言葉は、苦しくてなかなか口から出てきませんでした。

「……………………。
 お兄ちゃんに、家から出ていって、ほしい」

「え……!? なんだって?」

お兄ちゃんは混乱したのか、訳がわからない風に首を振りました。

「お兄ちゃんは、我慢してるでしょ?
 わたしのために、お父さんといっしょに暮らしてる。
 お父さんの、言いなりになって、高校に行って、大学に行って、
 このまま、お父さんの後を継ぐつもり?
 嫌じゃないの?
 お兄ちゃんの夢は……どうなったの?
 料理人になりたい、って言ってた、あの夢は」

わたしは真っ直ぐに、お兄ちゃんの瞳を見ました。

「しかし……あの家から俺が居なくなったら、お前は……」

「わたしは……我慢するのに慣れてる。
 ずっと我慢してきたんだし、もう、慣れちゃった。
 でも……お兄ちゃんは違う。
 このままだと、お兄ちゃんがダメになっちゃうよ。
 わたし……お父さんに冷たくされても我慢できる。
 でも、わたしのために、お兄ちゃんが自分の夢をあきらめるのは、
 我慢できない。できないよ」

お兄ちゃんは怒りを忘れて、真剣に考え込みました。

「お前は……どうするんだ? あの家でひとりになって」

「今までと、なにも変わらない。お兄ちゃんが急に居なくなったら、
 お父さんはきっと怒る。でも、わたしはなにも喋らない。
 お兄ちゃんが居なくなっても、お父さんは警察には届けないと思う。
 見栄っ張りだから。
 ホントは……わたしもお兄ちゃんに付いて行きたい。
 でも、中学生で病気のわたしがいっしょじゃ、足手まといになる。
 それに、二人とも居なくなったら、事件になっちゃう。
 だから、わたしは……待ってる」

「待つって、なにを?」

「わたしが卒業して……病気が治って……お兄ちゃんに余裕ができたら、
 迎えに……来てほしい。それが、わたしの夢」

お兄ちゃんは目をつぶって、長いあいだ考えていました。
やがて、目蓋を開けて、言いました。

「わかった。俺も肚を決めた。部屋と仕事を探すよ。
 もう親父の言いなりになるのは止めだ。
 仕事はなんとかなる。知り合いのやってる喫茶店で雇ってもらえると思う。
 何年かかるかわからないけど、お前を迎えに行く。約束する」

「約束は、しなくていい。これは、わたしの夢だから。
 未来のことは、誰にもわからない。だから、縛りたくない」

お兄ちゃんはわたしの目を見返して、感極まったようにつぶやきました。

「○○……お前は、そんなことを、たったひとりで考えていたんだな。
 俺は、自分が情けないよ。やっぱりお前のほうが、大人だ」

お兄ちゃんとわたしは二人とも、まだ無力な子供でした。
けれど、お兄ちゃんの目には、自嘲だけでない微笑みがありました。

(続く)

●連載286(ここでの連載105)●
2003年7月4日(金)18時00分

お兄ちゃんはわたしの頭を抱きかかえ、しきりに髪を撫でました。
小さなつぶやきが聞こえてきました。

「すまん……すまん……」

謝ることなんてなんにも、お兄ちゃんはしてないのに、と思いました。

「お兄ちゃん、お金いるでしょ?」

「ん……ああ、バイト代の残りもあるし、お前は心配しなくていいよ」

「……お父さんの預金を解約すればいい。
 1通ぐらい通帳がなくなったって、どうってことない」

「ん〜、しかし、それは……」

お兄ちゃんは思案しているようでした。
家出するのに父親のお金を持ち出すのは、抵抗があるのでしょう。

「お父さんの世話になるのは、いや?」

「まあな」

「わたしの入院費はただになったけど、ホントならもっとかかってたと思う。
 その分を、わたしからお兄ちゃんに上げる。そう思えばいいよ」

そうして、スペアキーや組み合わせ番号の隠し場所を、お兄ちゃんに教えました。
父親の金を盗むことに、罪悪感はちっとも湧いてきませんでした。
お兄ちゃんが、不意にくっくっと笑いました。

「どうしたの? お兄ちゃん」

「いや……お前は知恵が回るなぁ、と思ってさ。
 悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
 あっという間に未来が変わっていきそうで……さばさばするよ」

わたしは座り直して、お兄ちゃんの顔を見ました。
ずっと見たかった、お兄ちゃんの晴れ晴れとした笑顔を。
悪巧みに相応しく、わたしもにやりと笑いました。

「お兄ちゃんのためなら、なんだってできるよ」

お兄ちゃんとわたしはこの時、父親に対抗する同盟者でした。
不安よりむしろ、血の沸き立つような高揚感がありました。
言葉通り、お兄ちゃんのためなら、どんなことでも顔色ひとつ変えず、
わたしはやってのけたでしょう。

けれど、別れ際にお兄ちゃんは浮かない顔になりました。

「しばらく……ここには顔を出せなくなる。
 連絡先が決まったら、なんとかして伝えるからな」

「うん……退院して元気になったら、
 お兄ちゃんのお部屋に、遊びに行ってもいい?」

「もちろん。親父にはバレないようにな」

「また、会えるね。楽しみにしてる」

お兄ちゃんが見舞いに来れなくなったのは残念でしたけど、
わたしには、新しい目標が生まれました。

数日経って、病室に突然、父親が現れました。
怒りのせいか、かなり興奮していました。
丸椅子に腰を下ろそうともせずに、父親はわたしを睨みつけて言いました。

「△△が急に居なくなった。
 置き手紙を残して通帳まで持ち出しやがって……。
 △△と仲が良かったお前は、何か聞いているだろう?」

尋問されるのは予想通りでした。
わたしは能面のように表情を引き締め、短く答えました。

「知らない」

「そんなはずがあるかっ! 隠し立てするとただじゃおかんぞ!
 △△みたいに親を裏切るのか?」

親だったら……子供になにをしても良いんですか? お父さん。
そう言いたいところをこらえて、わたしは繰り返しました。

「知らない」

父親の声が高すぎたせいでしょう。
同じ病室の誰かがナースコールをしたのか、
担当の看護婦さんがやってきて、父親を病室から追い出しました。

わたしは父親と対面すると、無意識に余分な力が入るせいか、
後で肩や首が痛くなってきます。
わたしがベッドの中で脱力してぼんやりしていると、
隣のベッドの付き添いのおばさんが、声をかけてきました。

「大丈夫? 顔色が悪いけど」

「……はい、もう大丈夫です」

その後、わたしのことでどんな噂が流れたのかは知りません。
けれど、同じ病室に付き添いに来ている人たちや、
看護婦さんたちは、奇妙なほどわたしに優しくなりました。

やがて、夏休みも終わりに近づき、退院の日が訪れました。
迎えに来たのは、UとVでした。

「やっと退院やな」

「○○ちゃん、よかったねー」

「うん、来てくれてありがとう」

Vがにこにこしているのはいつものことですが、
その日はUが気持ち悪いほどにやにやしていました。

「どうしたの? U」

「ぐふふぅ、お届け物があるんや、『お兄ちゃん』からやで」

(続く)

●連載287(ここでの連載106)●
2003年7月6日(日)14時50分

わたしは反射的に腕を伸ばして、Uの手から包みを奪い取り、
胸に抱え込みました。

「うわ……! なにするんや」

Uが小さな悲鳴を上げて、のけぞりました。
Vも驚いて目を丸くしています。
わたしは決まり悪くなって、ぼそぼそと弁解しました。

「……これは、わたしのモノでしょ?」

「アンタなぁ……そんなに焦らんでも誰も盗らへんて」

「○○ちゃんすごいー、手が早くて見えなかったよー」

「それより、なにが入ってるんか早う確かめぇな」

わたしはしゃがみ込んで、膝の上で丁寧に包み紙をほどきました。
中から出てきたのは、少し厚みのあるカードサイズのポケットベルと小冊子、
それに手紙でした。

ポケットベルには1行表示のディスプレイがあって、
数字や文字を表示できるようになっています。
手紙には、新しい住所と、お兄ちゃんの持っているもう一つのポケットベルの
番号が書いてありました。

これが、お兄ちゃんとわたしを繋ぐ、見えない絆になる、と思いました。

「○○……『お兄ちゃん』が家を出ていったそうやな」

ポケットベルに心を奪われているわたしに、
Uが声をかけてきました。

「うん……」

「なんでかは教えてくれへんかったけど、家出を勧めたんはアンタやて?
 なんでやの?
 アンタがそんなこと言うやなんて、とても信じられへん……」

Vも同感なのでしょう、不思議そうな面持ちをしています。
父親の一件を話さなければ、二人とも納得しそうにありません。
わたしはUとVをうながして、病院のそばにある喫茶店に入りました。

椅子に腰を下ろし、それぞれドリンクを頼んでから、
わたしは思い切って二人に切り出しました。

「あのね……二人に、聞いてほしいことがある」

わたしの声はその時、かすかに震えていたかもしれません。
わたしのただならぬ態度から何かを察したのでしょう、
二人とも真剣な顔つきで耳を傾けてくれました。
そして、前回の退院のいきさつを聞くうちに、顔色が変わってきました。

不意にUが「しっかりし、しっかりし」と言いながら、
わたしの肩を揺すりました。

「あ……あれ?」

いつの間にか、自分の肩がぶるぶる震えています。
震えを止めようと手で押さえると、その腕までが震えはじめました。
歯がカチカチ鳴って、一語一語噛みちぎるようにしないと、
言葉を口から押し出せません。

「お父…さんが……わたしを……『廃人』……だって……」

「もうええから! もう喋らんでええから!」

Vは黙って、わたしが落ち着きを取り戻すまでずっと、
後ろから抱きしめてくれました。

冷めたコーヒーを飲みながら、Uが気遣わしげな声を出しました。

「……だいたいの事情はわかった。
 アンタを見放した親を『お兄ちゃん』は見放したわけやな。
 けど……○○はそれでホンマにええんか?」

Vはもう、泣き出す寸前の表情でした。
けれど、わたしの瞳は渇いたままでした。

「うん……それでいい。わたしはまだ出て行けない。
 でも、お兄ちゃんは、ひとりでも出て行くべきだと思う。
 前みたいに遠くじゃないし……元気になったら会いに行ける」

飛行機に乗って会いに行くことを思えば、なんでもありません。

「そうか……わたしらにできることがあったら、なんでも言うてな」

首が千切れそうなほど激しく、Vがうなずきました。

「お兄ちゃんに会いに行くとき、もしアリバイが必要になったら、
 お願いするかも」

「まかしときっ」
「もちろんだよー」

二人とも、わたしに残された、かけがえのない味方でした。

帰宅したわたしを待っていたのは、夕食の席での詰問でした。
食事中ずっと、お兄ちゃんの居場所の手がかりはないかと、
父親に問い詰められました。

わたしの答えは決まっていました。
エンドレステープを流しているかのように、同じ言葉を繰り返し、
首を横に振るだけです。

「知らない」

根負けした父親がやっと口を閉じると、わたしは顔を伏せたままで
ほくそ笑みました。

(続く)

●連載288(ここでの連載107)●
2003年7月6日(日)23時20分

最終学年の2学期が始まりました。
けれど、この頃の学校生活を、わたしはあまり思い出せません。
学校と縁の薄い毎日を送っていたせいでしょう。

受験を目前にしてどこか張り詰めた表情のクラスメイトたちと、
朝から登校していることの珍しいわたしとは、接点がありませんでした。
むしろ、病院の看護婦さんとの会話の方が多かったと思います。
足の関節炎は、良くなったり悪くなったりを繰り返していました。

朝の目覚めが優れない時は、数時間遅刻するか欠席するのが常でした。
欠席が多くても中学校は卒業させてくれます。
なによりも、お兄ちゃんのアパートに通えるぐらいに体力を回復させるのが、
わたしにとっては最優先事項でした。

お兄ちゃんに手紙を書くことはできても、貰うことはできません。
お兄ちゃんとの連絡は、誰にも知られずバイブレータで着信のわかる
ポケットベルが頼りでした。

数日に一度、ポケットに入れたベルがブブブブと震えます。
トイレの個室に入ってベルのディスプレイを確かめます。

「ケ゛ンキカ?」

「ケ゛ンキ」「オシコ゛トタイヘン?」

「カ゛ンハ゛ツテル」

こんな短いやりとりでも、お兄ちゃんの声が聞こえるような錯覚がしてきて、
鼻の奥がつんと熱くなりました。

やがて、わたしの体調が安定してきたので、こんなメッセージを送りました。

「ヘヤニイキタイ」

指定された日曜日は、念のためにUとVにアリバイ工作を頼みました。
お兄ちゃんの住む知らない街まで、電車に揺られながら、
どんな部屋で暮らしているのだろうか、と想像するのも楽しみでした。

駅を出ると、バイクにまたがっているお兄ちゃんの姿が目に留まりました。
久しぶりに見るお兄ちゃんは、少し痩せていました。

「○○、久しぶり。元気そうだな」

何度も何度も心の中で想像していた、お兄ちゃんの笑顔でした。

「久しぶり……お兄ちゃん、痩せた?」

「ん……ちょっと寝不足気味でな。とにかく乗れよ」

タンデムシートに腰を下ろして、お兄ちゃんのお腹につかまりました。

「昼は学校、夜は仕事だからな……学校で寝てる」

表沙汰になるのを嫌ったのか、父親は高校には押しかけていなかったのです。
お兄ちゃんも、高校だけは卒業するつもりのようでした。

駐車場にバイクを停めて、アパートまで少し歩きました。
ボロボロにひび割れたモルタル塗りの古い家が続いています。
お兄ちゃんが足を止めたのは、見たこともないぐらい汚らしい外観の、
老朽化したアパートの前でした。

わたしは建物を見上げて絶句しました。
自然倒壊しないで建っているのが不思議に思えたほどです。
わたしの視線に気づいたお兄ちゃんが説明しました。

「ここはこの辺で一番安いアパートなんだ」

お兄ちゃんは共同の玄関を上がって、すぐ右側の部屋に入りました。
続いて中に入ってみて、その狭さにまた驚きました。
畳敷きで6畳なのですが、畳のサイズが小さいのです。

短辺が75センチぐらいしかない、ミニチュアサイズの畳でした。
おそらく、「6畳」と表記するためだけに、こんな畳を敷いているのでしょう。
えたようなカビくさい臭いがしました。

棒立ちになっているわたしに、お兄ちゃんは苦笑しながら座布団を勧めました。

「驚いたか? 狭くても寝心地はいいんだ。
 家に居た頃よりぐっすり眠れる」

自宅よりも病院のベッドの方が安眠できるわたしには、
お兄ちゃんの気持ちが痛いほど理解できました。

「座れよ。お茶いれるから」

「うん、ありがとう」

わたしが世話を焼きたいところでしたが、勝手がわかりません。
お兄ちゃんのもてなしに甘えることにしました。

座布団に座ってきょろきょろ見回してみました。
本当にモノの少ない部屋でした。
狭いので、荷物を増やせないということもあったのでしょうけど。

部屋の真ん中に小さなちゃぶ台、流しには洗面用具、
ザルに入れたお茶碗とお箸とお皿と小鉢が一つずつ。
小さなお鍋と小さなフライパン。壁に立てかけてあるギター。
目に映るのはたったそれだけでした。
家を出るとき、お兄ちゃんはギター以外なにも持ち出さなかったのです。

ちゃぶ台に紅茶のカップを置き、お兄ちゃんが胡坐をかきました。
わたしの顔をしばらくじいっと見つめてから、言いました。

「少し顔色がよくなったかな? 安心したよ。
 家や学校でつらいことはないか?」

「だいじょうぶ。
 学校にはあんまり行ってないし……家では口を利いてないから」

小さな部屋で小さなちゃぶ台を囲んで、まるでおままごとみたいだ、
とわたしは思いました。それが、とても幸せでした。

(続く)

●連載289(ここでの連載108)●
2003年7月7日(月)19時50分

お金を使う遊びはできませんでしたし、する気もありませんでした。
お兄ちゃんと肩を並べてアパートの周りを散歩したり、
秋の風に当たりながら楽器店に楽譜を買いに行ったり、
お兄ちゃんの茹でたパスタをいっしょに食べたりしました。

することがなにも思いつかない時や、
目の下に隈ができるほどお兄ちゃんが疲れている時は、
薄くて固い布団を敷いて、二人でお昼寝しました。

「お兄ちゃん、わたし、ちょっと疲れたみたい」

「それじゃ、昼寝でもするか?」

わたしに腕枕をしながら、お兄ちゃんは先に寝入ってしまいました。
よっぽど疲れているんだろうな、と思いました。

静かに寝ているお兄ちゃんの面差しはふだんと違って、
どこかしら年相応の稚気を感じさせました。
わたしもお兄ちゃんの胸にしがみついて、眠りに就きました。

お兄ちゃんの住む、古ぼけた狭苦しい部屋。
当時はそこだけが、世界中でただ一つ、わたしの安らげる場所でした。
体調の良い週末にはできるだけ、お兄ちゃんの部屋に通いました。
通い妻のように、という言葉を密やかに心に秘めて。

けれど……お兄ちゃんの爪弾くギターの調べに耳を傾けながら、
面やつれして鋭くなった顎の線や、遠くを見つめる眼差しに、
なぜだか言いしれない胸騒ぎを覚えることがありました。

「お兄ちゃん?」

「ん、どうした?」

手を止めてわたしを見るお兄ちゃんの顔は、いつもの笑顔でした。

「…………」

「なにか、悩みでもあるのか?」

「……お兄ちゃんは?」

逆に問いかけると、お兄ちゃんはハッとしたように息を止めて、
瞳を頼りなげに揺らめかせました。
時が、歩みを止めたような気がしました。

「……別に、なんでもない」

お兄ちゃんの表情が、瞬時にしっかりした輪郭を取り戻し、
唇が笑みを形作りました。
わたしはまだ胸落ちしきれず、首を傾げました。

「そう……ならいいんだけど」

自宅への帰り道、駅のホームで電車を待っていると、
正体の判らない不安感が、ひっそりと背筋を這い上がってきました。

わたしの世界に残されている宝物は、
お兄ちゃんの優しい眼差しと、Uの遠慮のない快活さ、Vの無邪気な笑顔、
この三つだけでした。

どうか、こぢんまりとした、ささやかな幸福を奪わないでください、
という祈りを捧げるべき神様は、わたしには居ませんでした。
せめて、この秋の日々が長く続きますように、と願いました。

けれど、その秋が終わらないうちに、願いは唐突に破られました。

休日にわたしがベッドで休んでいると、電話のベルが鳴りました。
受話器を持ち上げて、「もしもし」と答えても返事がありません。
不審に思って「もしもし?」と重ねると、すすり泣く声がしました。

「……もしかして、V?」

「……うん……」

確かにVの声に間違いはないのに、
Vの口から出たとは信じられない、打ちしおれた響きでした。
わたしは努めて優しい声を作り、あやすように囁きました。

「どうしたの? 元気ないみたいだけど」

やがて、泣き声混じりで、切れ切れに助けを求められました。

「わかった。いまどこに居るの?」

「お家」

「すぐそっちに行く」

「ダメ! ……外のほうがいい」

どうやら、家族には知られたくないようでした。

「じゃ、いつも行くあの喫茶店にしましょ。
 Uは?」

「お家に居ないみたい……」

「Uはわたしが呼んでおくから、喫茶店で待ってて」

わたしは電話を切って、Uの家に電話をしました。

「あら○○ちゃん? Uなら今塾なんだけど」

「帰ってきたら、**という喫茶店に来るように伝言していただけますか?
 急用なんです」

「なにかあったの?」

「……ごめんなさい、言えません」

わたしの剣幕から何かを感じ取ったのか、Uのお母さんは
塾に連絡してUを呼び戻すと言ってくれました。

(続く)

●連載290(ここでの連載109)●
2003年7月8日(火)16時20分

喫茶店に入ると、Vがテーブルに突っ伏してぐすぐす泣いていました。
Uが来るまで、わたしはVの隣に座って待ちました。
ほどなくして、Uが息せき切って現れました。

注文を済ませ、呼吸を整えて、Uがわたしに訊きました。

「急に呼び出して……なにがあったんや?」

「まだ、聞いてない。三人揃ってからの方がいいと思って。
 V……なにがあったのか、話してくれる?」

Vが袖口で涙を拭きながら、途切れ途切れに語りはじめました。
なんとなく予想していたとおり、Xさんの話でした。

けれど、その内容はわたしの想像を超えていました。
Vのために、その内容を詳しく書くことはできません。

「なんちゅうやっちゃ!」

Uが怒りをあらわにして、Xさんを罵りました。

「Uちゃん……○○ちゃん……わたし、
 どうしたらいいかわからないよー」

Vの顔色は、壮絶なまでに青ざめていました。

「二人とも、落ち着いて。
 とにかく、なるべく早く、Xさんと話し合う必要があると思う」

「でもでも、おにーちゃん電話に出てくれないのー」

「……大学生のXさんから見れば、わたしたち子供だから、
 舐められているんだと思う」

わたしの胸も、純粋な怒りの炎に灼けるようでした。

「こんなとき、頼りになるのは……」

Uが悔しそうな表情でつぶやきました。

「兄ぃがおったらなあ……」

「Yさんは遠くにいるんだから、仕方ないよ。
 お兄ちゃんを呼んでみる」

「え? アンタの兄ちゃん忙しいんちゃうのん?」

「そうだけど……こんな時だもの。わかってくれると思う。
 V、わたしのお兄ちゃんを信用して任せてくれる?」

下から覗き込むと、Vは黙ってうなずきました。
澄み切っていた瞳が、生気を失ったガラス玉のように曇っていました。

わたしはポケットベルでお兄ちゃんに連絡を取りました。
詳しい事情を説明すると、お兄ちゃんも仲裁役を買って出てくれました。

その結果、翌日にXさんとお兄ちゃんとの話し合いが持たれ、
示談書を書かせる形で決着しました。

VとXさんとの婚約は、解消されることになりました。
両家の親にしてみれば、寝耳に水の出来事だったでしょう。

この事件で、一番傷ついたのは、もちろんVでした。
わたしやお兄ちゃんに「ありがとう」と感謝するVの態度は、
うわべだけのものではありませんでしたけど、
その顔に、以前のような屈託のない笑みはありませんでした。

数日後、お兄ちゃんがわたしたち三人を、仕事場に招待してくれました。
お兄ちゃんの働く喫茶店を訪れるのは、初めてでした。
仕事の邪魔になるといけないと思って、遠慮していたからです。

喫茶店の入り口には、定休日の札が下がっていました。
三人でガラス戸を開けると、お兄ちゃんが一人で待っていました。

お兄ちゃんはバーテンダーの黒い服を着ていました。
どこから見ても、二十歳を過ぎた大人に見えました。

「いらっしゃい。美味しいものを食べると気が楽になるよ」

お兄ちゃんはにっこり笑って、三人それぞれの前に、
大盛りのパフェを並べました。
シロップとアイスクリームとフルーツをふんだんに使ったパフェでした。

「泣いていると幸せが逃げていく、って言うからね」

そう言って、お兄ちゃんはシェーカーを振るいました。

「甘くなった口にはこれが美味しいよ。ノンアルコールだから大丈夫」

炭酸の利いた、さっぱりした味のカクテルでした。
わたしやUが元気づけようとしても上の空だったVが、
初めて微笑みを取り戻しました。

「お兄さん……ありがとう」

けれどその笑顔は、どこかしら愁いを帯びていました。

「おにーちゃん」はVの初恋だったはずです。それも、数年越しの。
婚約が決まったときのVの喜びが、幻のように儚く思えました。

あんなに天真爛漫だったVが、急に大人びて見えました。
子供っぽかったVの心を、この事件が殺したのだ、と思います。

大好きだったXさんが最低の人間だと知ってから、
大輪の花が咲きこぼれるようなVの笑顔は、二度と見られなくなりました。

それが大人になるための避けられない代償だったのだとしても、
無条件に人を信じていたVの無邪気さの喪失を、わたしはいたみます。

(続く)


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