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お兄ちゃんとの大切な想い出 連載271〜280

「お兄ちゃんとの大切な想い出」に掲載した連載271〜280(ここでの連載090〜099)を抽出したものです。番外編もあります。(管理人:お兄ちゃん子)

261〜270
271272273274275
276277278279280
281〜290

●連載271(ここでの連載090)●
2002年4月23日(火)22時20分

闇の中をひとり、どこへ行き着くのかも知らず、前へ前へと歩きました。
風の冷たさも、足の痛みも、わたしには関わりのない出来事でした。
天と地のあいだで、わたしはひとりぼっちでした。

それはこの先ずっと、変わらないだろうと思いました。
わたしの心の核は死んでしまって、融けない氷に占められてしまいました。

道は行き止まりでした。
わたしはなにも考えずに回れ右して、元来た道を戻りました。
もともと、どこにも行く場所はなかったのです。

お婆ちゃんの家の前に来たとき、東の空は明るんでいました。
遠くからでも、玄関の前に立つお兄ちゃんが見えました。
どれぐらい前から、そこで待っていたのかわかりません。

顔色を見分けられるぐらいに近づいて見ると、
お兄ちゃんは明らかにホッとした表情をしていました。

「○○……どこに行ってたんだ? 心配したぞ」

その声に、わたしを咎めるような響きはありませんでした。
わたしは手を伸ばしても届かない距離で、立ち止まりました。

このまま足を止めなければ、抱きしめてくれるだろう、と思いました。
でもそれは、避けなければなりませんでした。
ゆっくり一呼吸のあいだ見つめ合って……わたしは口を開きました。

「わたし、今日帰る」

「え? まだ来たばっかりじゃないか」

「わたし、まだ、ふつうの妹の顔ができないから……。
 わだかまりがなくなって、当たり前の妹として会えるようになったら、
 また会いに来るね。それまでは……離れてたほうが良いと思う。
 そうでしょ? ……兄さん」

初めてお兄ちゃんを他人行儀に「兄さん」と呼んだ瞬間、
わたしの胸は見えない刃に切り裂かれました。
その痛みを無視して、わたしはお兄ちゃんの横を素通りしました。

お兄ちゃんは後を追ってきませんでした。
わたしは冷え切った体を熱いシャワーで温めてから、
客間に敷かれた布団に入りました。

疲れているはずなのに、眠たくはありませんでした。
それでも、だれにも邪魔をされずに天井の羽目板を眺めていると、
いつの間にかわたしは寝入っていました。

なにか夢を見たような気がしましたけど、目が覚めた刹那に忘れました。
起きあがると、もう昼過ぎでした。
着替えて居間に出ていくと、F兄ちゃんが満面の笑顔でわたしを迎えました。

「○○、よう来たよう来た。来るて言うてくれたら迎えに行ったのに。
 ……? 顔色悪いな。旅行で疲れたんか?」

「はい……少し。わたし、これから帰ります」

F兄ちゃんの心配そうな渋面が、驚きに変わりました。

「なんやて? 昨日来たばっかしやないか。もう帰るんか。
 ……△△と、なんかあったんか?」

家の中に、お兄ちゃんの気配はありませんでした。

「なんにも……なんにもなかった。
 お兄ちゃんやF兄ちゃんの顔を見に来ただけだから……。
 友達と遊ぶ約束してるし……」

「そうか……。どっか遊びに連れてったろと思ってたんやけど。
 しゃあないな。帰るんやったら俺が送っていったろ」

わたしはそそくさとお婆ちゃんや曾お婆ちゃんに別れを告げ、
F兄ちゃんの運転する車に乗りました。
途中でレストランに寄って食事をしましたけど、
わたしは話しかけられても上の空でした。

田舎に来る途中は、ひとつのことばかり考えていました。
いまは考えることがなにもなくなって、空っぽになったようでした。
機械的な判断力だけが、わたしを操縦して自宅に連れ戻してくれました。

灯りの点いていない自宅は、暗い墓標のようでした。
体の重苦しさも、刺すような空腹感も、わたしには関係ありません。
郵便受けに入っていた不在配達票を、丸めてゴミ箱に捨てました。

このまま寝てしまおうか……と思いながら電話のそばを通ったとき、
ふとUとVの顔が脳裏に浮かびました。
UとVにも、お兄ちゃんとのことは話せません。

でも、2人の明るい声を聞いたら、少しは心が融けるかもしれない、
と思いました。電話機の前でためらったあげく、Uの家に電話をかけました。
電話に出たのはYさんでした。

「Uは出かけてるんだ。○○ちゃんも一緒かと思ってた。
 ……風邪でも引いたの? 声が変だけど」

「いえ、なんでもありません。またかけます」

今度はVの家にかけました。Vのお母さんは妙にはしゃいでいて、
Vに取り次いでもらうのに苦労しました。

「V、こんばんは……」

「○○ちゃ〜ん! 田舎からわざわざ電話してくれたの〜?」

Vは最初からハイテンションで、耳が痛くなるほどでした。

「う……うん」

「あのねあのね、聞いてくれる〜?」

「うん……なにかあったの?」

「えへへへへ〜。みんなにはまだナイショだよ〜?」

「Uにも?」

「Uちゃんと○○ちゃんは特別〜」

「わかった」

「あのね……わたし昨日、おにーちゃんと婚約したの〜!」

「婚約?」

わたしは唖然としました。

(続く)

●連載272(ここでの連載091)●
2002年4月25日(木)22時10分

「……婚約? ホ、ホントに?」

「ウソじゃないよ〜。
 おにーちゃんが家に来てお嬢さんをください、だってー!
 パパもママも喜んでくれたよー。
 大パパは最初絶対ダメ!って言ったけどー、
 おにーちゃんがちゃんと大学卒業したら考えるってー」

弾んだ声を聞いていると、喜色満面のVの姿が目に浮かぶようでした。
中2で婚約というのは、いくらなんでも早すぎるような気がしましたけど、
両親まで賛成しているのなら、どうこう言えることではありません。

「あ……お、おめでとう……」

「ありがとうー!
 ○○ちゃんとUちゃんもいっしょに喜んでくれると思ったよー。
 Uちゃんさっきから電話してるのにお家にいないんだー。
 どこに行ったのかなー?」

「さあ……? 後で電話したとき居たら、教えておくね」

「うくくくくー。わたし、最っ高にしあわせだよー。
 あと3年したらおにーちゃんのお嫁さんになれるんだー」

「……よかったね」

「うん!うん!うん!
 あ……ごめんねー。わたしばっかりしゃべっちゃってー。
 ○○ちゃんもなにか用事あったのー?」

わたしは口をあんぐり開けたまま、固まってしまいました。
まさに幸福の絶頂にいるVに、暗い話はできません。

Vならきっとわたしといっしょに悲しんでくれるでしょう。
でもそれでは、Vの最上の時を台無しにしてしまいます。

「えっと……なんでもないの。Vの声が聞きたかっただけ」

「ちょうどよかったねー。
 わたしも○○ちゃんに早く教えたかったんだー」

「じゃ、またね」

「またねー!」

受話器を置いて、わたしはその場にへたり込みました。
なんというタイミングだろう、と思いました。

Uの家に電話をかけ直すと、今度はUが出ました。
わたしがVの婚約を告げると、Uも仰天しました。
Uは驚きのあまり、わたしの放心に気づかなかったようです。

それからの1ヶ月間、わたしは心をどこかに置き忘れていました。
おぼろげな夢のなかに居たような気がします。
冬休みじゅう、ずっと家に籠もっていました。

新学期が始まっても、朝起き出すことができません。
わたしは風邪を口実に学校をサボりました。
実際に起き上がるのがおっくうなほど、体が重かったのです。

数日休んでいると、UとVが見舞いに来ると電話してきました。
でもわたしは顔を合わせたくなくて、風邪がうつったらいけないと、
申し出を断りました。

それでも、欠席が2週間を過ぎると、2人ともしびれを切らしたのか、
無理やりに押しかけてきました。

玄関に出迎えたわたしは、なんとか笑顔を作りました。
対面した2人は、同時に目をみはりました。

「○○ちゃーん。すっごいやせてるー!」

「アンタ……ご飯ちゃんと食べてるんか? 頬こけてるで」

言われてみると、空腹感はあっても食欲がなくて、
一日一食ぐらいしか食べていませんでした。

「えーと……寝てばっかりだから」

「わたしら、ちょうスーパー行って来るわ」

UはVを引き連れて凄い勢いで買い物に出かけました。
戻ってくると大量のおじやを作り、
ダイニングでわたしが丼1杯平らげるまで見張っていました。

「ごちそうさま……ありがとう」

「もう体の具合はええんか?」

「うん……」

「それならすぐに学校に来れるねー」

Vの輝くような笑みが、眩しいほどでした。

「うん……」

Uが立ち上がりました。

「ほなもう帰ろか。長居したら○○が疲れるやろ。見送らんでええからな」

わたしは大事なことをなにも話していないのに……
UとVの優しさが胸に刺さりました。

その夜は遅くなっても、なかなか寝付けませんでした。
UとVの顔が目に浮かびました。

わたしは起き出して、Uの家に電話をかけました。

「もしもし……夜分遅くすみません」

「……○○か? どないしたん?」

Uはまだ起きていたようでした。

「会えないかな」

「今からか?」

「うん……だめ?」

「ええで、そっち行こか」

「わたしが行く。下で待ってて」

Uのお母さんやYさんとは、顔を合わせたくありませんでした。

「アンタ病み上がりやん、無理したらあかんで」

Uの心配を押し切って、わたしは外出着に着替えました。

(続く)

●連載273(ここでの連載092)●
2002年4月26日(金)22時10分

マンションの1階のロビーで、Uは待っていました。

「ごめん」

「そんなんええから。寒うないか?」

わたしは首を横に振って、また外に出ました。
顔がしびれるような寒さでした。そんなものは無視できました。

「どこに行くんや?」

後ろからUの声がかかりました。
目的地はありませんでした。ただ、歩きたかっただけです。

わたしは無言で歩き続けました。
Uは黙ったまま、少し後をついてきました。

人通りのない小道を、10分ほど歩きました。
立ち止まって、夜空を仰ぎました。でも、なにも見ていませんでした。
小さな声がしました。

「なんか、あったんか?」

「ごめん……話せない。ごめん」

涙があふれてきました。もうとっくに、涸れたと思っていたのに。

「ええから、ええから」

小さな子供をあやすように、Uが背中をぽんぽんと叩きました。

「U……わたし、ひとつだけわかった」

「なにが?」

「ずっとずっと願っても……自分の全てを懸けて願っても……
 どんなに心の底から願っても……叶わない夢ってあるんだね。
 そんなの、当たり前のことなのにね」

それだけが、全身を貫く実感でした。

「そうやな」

目の前になにか差し出されました。白いハンカチでした。
ポケットに自分のハンカチが入っていましたけど、
わたしはそれを受け取って、顔を拭きました。

「ありがとう」

「うちはここにおっただけや。なんもしてへん」

慰めの言葉を口にしないUの優しさが、心に沁み入るようでした。
わたしは向きを変えて、Uのマンションに戻りました。

「送っていこか」

「もう遅いから、寝て。わたしはもう、だいじょうぶ」

「そうか……ほな、学校で待ってるで」

自宅に戻ってベッドに入ると、心が妙に軽くなっていました。
でもその翌朝も、やっぱり起きあがれませんでした。
鉛を詰めたみたいに、体が重かったのです。

その夜、Vが訪ねてきました。
Vはわたしの顔を見るなり、目に涙をいっぱい溜めて、抱きついてきました。
わたしはよろけて倒れそうでした。

「どっ、どうしたの? V」

「○○ぢゃ〜ん。ヒドイよおぉー」

わたしは自分より身長の高いVの背中に腕を回して、
落ち着かせようとしました。

「え、なにが?」

「Uちゃんから聞いたよー。
 どうしてわたしだけ仲間はずれにするのー?」

「ごめん……Vに心配かけたくなかった。
 Vはいま、とっても幸せだから……」

「違うよー! 友達が泣いてるのに自分だけ幸せになれないよー。
 わたしなんにもできないけど、いっしょに泣くよー!」

客観的に見ると、泣いているのはVのほうでした。
わたしは逆に落ち着いてしまい、泣けません。
わたしはパジャマの袖で、Vの涙を拭いてやりました。

「ありがとう……詳しくは話せないけど、わたし、失恋したんだ。
 泣いてくれて……ホントにありがとう」

わたしはその時、VとUの2人は、わたしの一生の親友になるだろう、
と確信しました。

わたしは再び登校するようになりました。
朝起きるのに、気力を振り絞らなければなりませんでした。
あたたかいベッドから抜け出して着替えるだけで、1時間もかかりました。

全身の倦怠感と重さは、失恋の後遺症だと思っていました。
そうではないとわかったのは、年末からサボっていた定期検査の時でした。
肉眼ではわからなくても、尿に赤血球が混じっていました。
腎炎の再発です。

慢性化したら、治らないということはわかっていました。
症状を抑える薬はあっても、損傷した糸球体を治す薬はありません。
再入院して、腎生検をやり直すことになりました。
以前の腎生検では完全なデータが取れていなかったからです。

険しい顔のO先生の宣告を、わたしは平静に受け止めました。
根拠もなく、このポンコツな体は二十歳までもたないだろう、と思いました。
わたしはタクシーで家に帰って、入院の準備を調えました。

再びタクシーで病院に戻りました。
勝手知ったる病院の事務室に出向いて、入院の手続きをしました。
事務のお姉さんが、わたしの後ろにきょろきょろ視線を走らせました。

「えっと……××さん、お母さんは?」

「母にはこれから連絡します。
 緊急入院の必要があるそうなので、ベッドを空けてください。
 小児科のO先生に問い合わせていただければわかります」

(続く)

●連載274(ここでの連載093)●
2002年4月27日(土)22時25分

小児科病棟では2年半のうちに、看護婦さんがだいぶ入れ替わっていました。
目新しいことは何ひとつ起こりません。
検温、病院食、検査、投薬……刑務所のような、規則正しい毎日でした。

いえ……もしかすると、
わたしが周囲の出来事に、気を留めなくなっていたのかもしれません。

白いシーツとクリーム色の天井、
そして洗いざらしのカーテンに囲まれた四角い空間が、
わたしの世界のすべてでした。

世界に彩りが戻るのは、UとVが見舞いに訪れたときだけでした。

「○○! 生きてるかー!」

入ってきたUの声は、病室で立てるには大きすぎました。
わたしが人さし指を立てて唇に当てると、Uは首を縮めました。

「ごめんごめん。これ、お見舞いや。
 なにが食べられるんかわからへんかったからな」

Uはそう言って、花束を差し出しました。

「ありがとう。良い匂い……」

Uの後ろを見ると、Vが白い木箱を胸に抱いています。
場所柄を考えると、いかにも不吉でした。

「V……それ、なに?」

Vは注目を浴びるのを待ちかまえていました。

「うふふふー。腎臓病にはスイカがいいんだよー。
 おしっこが出るんだってー。
 ○○ちゃんのお見舞いに行くって言ったら、
 ママが買ってきてくれたのー」

木箱に詰め物をして納められていたのは、見事なスイカでした。

「これ……もしかして、もの凄く高くない?」

「そうなのかなー?」

真冬のスイカは完全に時季はずれです。
Uも呆れた顔でうんうんうなずいています。

「Vの家って……やっぱりブルジョアなんだね」

「ブルジョアってなにー?」

「ブルジョアジー。資本家階級のこと。
 プロレタリアート革命が起きたら人民の敵として死刑ね」

「死刑ーー!」

「プロレタリアートは労働者階級のこと。
 わたしもUも働いてないから、Vを処刑したりしないよ」

ホッとするVを横目にわたしとUは大笑いして……
やっぱり看護婦さんに怒られました。

2人が帰った後、看護実習生が来て、わたしの顔を見て驚きました。

「○○ちゃん……よかった」

「……? なにがですか?」

「わたしが担当になってから、○○ちゃんの笑った顔見るの、
 今が初めて。やっぱり笑ってたほうがいいよ」

わたしはそれまで、よっぽど不景気な顔をしていたようです。
とはいっても、面白いこともないのに始終ニタニタしていたら、
気持ち悪いだけです。

出歩くこともできず、ただひたすら寝ているしかありません。
2回目の腎生検は、慣れもあってスムーズに終わり、
今度は直後の出血がなかったので、絶対安静からは24時間で解放されました。

気晴らしは、UやVのお見舞いと読書しかありません。
眠っている時間以外は、いつでもなにか読んでいました。
なにか読んでさえいれば、余計なことを考えないで済むからです。

前の時と同じように、売店経由で新刊を取り寄せ、
読む本がなくなると、古新聞を貰って隅から隅まで目を通しました。
本の虫というよりは、むしろ活字中毒になっていました。

半月ほど経つと、窓際のベッドの患者が退院していきました。
看護婦さんが何人もやってきて、わたしのベッドを移動しました。

冬の穏やかな日の射す窓際のほうが、
いくらかでもわたしの気晴らしになる、とだれかが考えたのでしょう。

わたしにしてみれば、日射しでも枕元灯でも同じことでした。
むしろ、斜めから射す冬の日のほうが、眩しくてやっかいでした。

ある日の午後、わたしは逆光を避けるために、
上体を起こして本のページに視線を落としていました。

ふと、手元に影が差しました。
わたしは反射的に顔を上げて、日光を遮った何かに目を遣りました。

そこに居るはずのない人が、そこに居ました。一番会いたくて、
会いたくない人が、無言で、微かに頬を緩めて、立っていました。

「……お兄ちゃん?」

半信半疑でそう口にして、ハッとしました。

「○○……また『お兄ちゃん』って呼んでくれるんだな」

お兄ちゃんは、きらめくような笑顔を見せました。
わたしが言い直そうかとためらって唇を噛んでいると、
お兄ちゃんはベッドに腰を下ろしました。

「無理すんな。呼びたいように呼べばいい」

「でも、お兄ちゃん……どうしてここが?」

わたしが入院したことは、田舎に連絡していませんでした。

「UちゃんとVちゃんがな……」

「あの2人が?」

「俺が見舞いに来ないのを不審に思って、わざわざ知らせてくれたんだ。
 前にYさんやXさんとアドレスを交換してたからな」

「そうだったの」

「○○……俺は怒ってるぞ」

「え?」

(続く)

●連載275(ここでの連載094)●
2002年4月29日(月)22時00分

おそるおそる見ると、お兄ちゃんは目を細め眉根を寄せていました。

「なにか言うことは?」

めったに見たことのないお兄ちゃんの怖い顔を見て、
わたしは心臓がばくばく言いはじめました。

「……心配かけたらいけない、と思って……」

「そうじゃないだろ?」

がしっ、と大きな手で額を掴まれました。
お兄ちゃんの手のひらで、前が見えなくなりました。
催眠術をかけられたみたいに、わたしは身動きできなくなりました。

耳元で、お兄ちゃんが囁きました。

「お前がまた入院したって聞いて、俺がどれだけ心配したと思う?」

「ご……ごめんなさい」

「もう俺には隠すなよ?」

「はい」

「よし」

お兄ちゃんは反対側の手で、わたしの首筋を掴みました。
そのまま、こめかみと首筋を揉みほぐしてくれました。
頭がぼーっとするほどの気持ちよさでした。

「○○……痩せたな」

「……うん」

お兄ちゃんは手を離して、枕元の丸椅子に腰掛けました。

「ちゃんと食べなくちゃな」

「うん」

お兄ちゃんはナイフとリンゴを取り出して、皮を剥き始めました。
わたしは枕に頭を横たえて、リンゴを剥く指先を飽きずに眺めました。

お兄ちゃんは黙ってリンゴを一口大に切り分け、
1個ずつわたしの口に押し込みました。甘いリンゴでした。

わたしが食べ終わると、お兄ちゃんは立ち上がりました。

「先生に会ってくる」

「いってらっしゃい」

お兄ちゃんの背中がドアの向こうに消えた後も、
わたしは病室のドアを見つめ続けました。
モノトーンだった世界に、生気が戻ったようでした。

向かいのベッドに付き添っている、名前を知らないおばさんが、
わたしに話しかけてきました。

「○○ちゃん、いまの人、彼氏?」

振り向くと、興味津々と言った顔つきでした。
視線をめぐらすと、病室中の視線がわたしに集中していました。
首筋や顔に血が集まってきて、熱くなりました。

「ち、違います。兄です」

「あ、そうなの」

そのおばさんはなぜか、ガッカリした様子でした。
わたしは読みかけの本を開いて、読んでいるふりをしましたが、
まったく頭に入りませんでした。

お兄ちゃんは帰ってくると、病室の他のベッドを1つ1つ回って、
頭を下げました。
また丸椅子に腰を下ろしたお兄ちゃんは、真剣な表情でした。

「○○……いま聞いてきたんだが」

「お兄ちゃん」

「ん、なんだ?」

話の腰を折られて、お兄ちゃんが訊き返しました。

「談話室に行かない?」

病室中の人が、息をひそめて聞き耳を立てているようでした。

「歩けるのか?」

「毎日歩いていないと、足が弱っちゃうから」

わたしは毎日トイレまで、自力で歩いていました。
お兄ちゃんの手を借りて、わたしはスリッパを履き、
サイドテーブルの後ろから、杖を取り出しました。

「お前……足が?」

「原因不明だけど、右の股関節と膝が痛いの」

腎炎の症状の1つか、それとも薬の副作用なのか、
右の股関節と膝関節の軟骨が、柔軟性を失っているようでした。
体重をかけると、キリで突いたような痛みが走ります。

お兄ちゃんと左手をつないで、杖を突いて、談話室までゆっくりと歩きました。
談話室の窓から見える景色は、殺風景な真新しい新棟でした。
ソファーに腰を下ろして、窓に目を向けながら、お兄ちゃんは話し始めました。

「先生に聞いてきたけど……今度は長くかかりそうだってな。
 治るまで10年単位で考えないといけないって……」

「知ってる」

病状については、O先生から詳しい説明を受けていました。
隠していても、わたしなら勝手に調べてしまうだろうから、と。
ふつうの意味での「完治」は期待できないということも。
たぶん一生、病気と付き合って生きることになる、とわかっていました。

「それでな、俺は決めた」

「なにを?」

「俺はこっちに戻ってくる」

(続く)

●連載276(ここでの連載095)●
2002年5月1日(水)22時30分

「え?」

一瞬、意味がわかりませんでした。

「こっちに帰ってきて、お前といっしょに住むってことだ」

「……ホント?」

夢を見ているのか、と思いました。

「ホントだ。約束する」

お兄ちゃんはきっぱりと断言しました。

「でも……学校はどうするの?」

「こっちの高校に転校する。編入試験があるだろうけど、なんとかする」

「お父さんは……なんて言うかな?」

「親父がなにを言ったって関係ないさ。
 お前が病気で寝てるのに、そばにいないと心配でしょうがないよ」

「でも……」

お兄ちゃんと父親がいっしょに住むことになったら、衝突は不可避です。
想像しただけで、わたしはそわそわしてきました。

「なんか飲むか?」

お兄ちゃんは立ち上がって、自動販売機の方に歩いていきました。
うなだれて考え込んでいると、突然、首筋に冷たいものが当たりました。

「ひゃっ」

お兄ちゃんが、冷たい缶ジュースを押し当てたのでした。
振り仰ぐと、お兄ちゃんの悪戯っぽい笑顔が見えました。

「お前は心配しなくていいんだ。心配しすぎると体に障るぞ?
 楽しいことを想像しなくちゃ。退院したら、遊びに行こうな」

お兄ちゃんがぷしっとプルタブを開け、缶を手渡してくれました。
冷たいジュースが胃に落ちていくと、実感が湧いてきました。
お兄ちゃんとまた毎日いっしょに居られる……くらくらしました。

「うん……待ってる」

お兄ちゃんはそばに立って、わたしの髪を撫でていました。
わたしは胸がいっぱいで、なにも言えませんでした。

お兄ちゃんは手続きを進めるために、田舎に戻っていきました。
コンクリートに囲まれた病室に、お兄ちゃんが買ってくれた花を飾りました。
わたしの世界が色彩と匂いを取り戻し、動き出したようでした。

UとVの2人が、またお見舞いにやってきました。

「○○、前より元気そうやん。安心したわ」

「そう?」

「うん! 顔色いいよー? なにかいいことあったのー?」

「うん、あった」

「なになにー?」

「U、V。2人でわたしのお兄ちゃんに電話したでしょう?
 どうして入院したことを知らせなかったんだ、って怒られちゃった」

じろりと睨むと、2人はさっと目を逸らせました。

「……でも、ありがとう。
 おかげで、お兄ちゃんが家に帰ってくることになった」

「ホンマか?」
「ホントー?」

「うん」

わたしが微笑むと、UもVも満面に笑みを浮かべました。
それからわたしは、退院の日を指折り数えました。

春休みに入って、ようやく退院の日がやってきました。
病室までお兄ちゃんが迎えに来てくれました。
お兄ちゃんは、地元の高校の編入試験にパスしていました。

わたしは杖を突き、お兄ちゃんと手をつないで、O先生に挨拶に行きました。
病院の外に出ると、頬にあたる風は暖かさを含んでいました。

「○○、お前ももう3年生なんだな」

「うん、お兄ちゃんもね。
 学校を変わって、受験勉強大変じゃない?」

「ずっと学校を休んでたお前よりは楽さ。
 まぁ……お前はのんびりやればいい」

タクシーを呼んで、お兄ちゃんと家まで帰りました。
玄関に入ると、お兄ちゃんが振り向いて言いました。

「おかえり、○○」

「ただいま。お兄ちゃんも、おかえりなさい」

「ただいま」

「家に帰ってきて、だれかが『おかえり』って言ってくれるの、良いね」

「ああ……いいもんだな」

自分の部屋に上がろうとして、気付きました。
階段の壁の側に、新しい手すりが取り付けてあります。

「この手すりはどうしたの?」

「お前の足だと階段の上り下りが大変だろ?
 落ちないようにと思って、手すりを買ってきて取り付けたんだ」

(続く)

●連載277(ここでの連載096)●
2002年5月3日(金)22時00分

両手で手すりを掴んでいても、階段を上り下りしてトイレを済ませるのに、
1回で15分ぐらいかかりました。

お兄ちゃんは手を出さないで、じっと見ているだけでした。
動かしていないと関節が固まってしまう、と言っておいたせいです。

でもお兄ちゃんは、さりげなく階段の下に立っていました。
万が一わたしが転落したときに、受け止めるためだったのでしょう。

わたしはまだ安静にしていなくてはならなかったので、
春休みはどこにも遊びに行けませんでした。
ほとんどの時間を、自分のベッドに座って本を読んで過ごしました。

お兄ちゃんは時々、わたしの様子を見に来ました。
クッションに腰掛けて、なにを言うでもなく座っていることもありました。
わたしもただ、本のページに目を落としていました。
その静かにたゆたう時が、わたしは一番好きでした。

ある夜、お兄ちゃんがギターケースを提げて、部屋に入ってきました。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「一曲聴かせてやろうか?」

お兄ちゃんは不敵な笑みを浮かべました。

「聴きたい」

お兄ちゃんはクッションに腰を下ろして、ギターを構えました。
ギターの調べに乗せて、寂しげな歌を口ずさみはじめました。

もしも明日わたしたちが
何もかもをなくして
ただの心しか持たない
痩せた猫になっても……
このフレーズが心に残りました。

「お兄ちゃん……それ、なんていう歌?」

「中島みゆきの『あした』っていう曲だ」

「……寂しい歌、ね」

「……そうだな。変か?」

お兄ちゃんの明るいイメージには合わないような気がしました。
でも、いまのお兄ちゃんの歌声には、情がこもっていました。

「ううん。とっても良い歌だった。もっと聴きたい」

それから何曲か、お兄ちゃんの歌に耳を傾けました。
弦の震える音が、歌声が、その場の空気そのものが知覚できました。
わたしの体が以前にも増して、弱くなっていたせいかもしれません。
綱渡りのロープの上を歩いているみたいに、感覚が研ぎ澄まされていました。

お兄ちゃんのワンマンショーが終わって、ストレッチをしました。
寝てばかりいる体が、固くなってしまわないようにするためです。

最後の仕上げは、お兄ちゃんの手による全身マッサージでした。
手を動かすお兄ちゃんの表情や態度は、去年とは微妙に違っていました。
笑みを消し、努めて事務的に振る舞っているのが判ります。

わたしは一言も発せず、歯を噛んでマッサージを受け入れました。
泣いても泣いても忘れられなかったお兄ちゃんへの想いを、
いま悟られるわけにはいきませんでした。

そんなモノトーンの日々は駆け足で過ぎ、始業式の朝が訪れました。
わたしは久しぶりに制服に身を包んで、去年より30分早く玄関に立ちました。
杖を突きながらだと、学校までの道のりに時間がかかりそうだったからです。

表に出ると、真新しい高校の制服姿のお兄ちゃんが、
バイクにまたがって待っていました。

「○○、乗れよ」

「お兄ちゃん……どうしたの?」

「学校まで送っていってやる」

お兄ちゃんはにやっと笑いました。悪戯小僧のような笑みでした。

「でも……バイク通学はダメなんじゃないかな……」

中学校では当然、バイク通学は認められていません。
お兄ちゃんの高校も、たぶん同じでしょう。

「大丈夫。ちゃんと学校の許可は取ってある。
 T先生に事情を話して、特別に俺が送り迎えするのを認めてもらった」

お兄ちゃんは得意そうに、頬をぴくぴくさせています。
まだ高校の許可を取っているかどうかが不明瞭でしたけど、
わたしは追及しないことにしました。

タンデムシートに乗る時に右足が痛みましたけど、仕方がありません。
スカートなので横座りして、お兄ちゃんの背中に抱きつきました。

「落ちないようにしっかり掴まってろよ」

ステップに足をかけられない体勢では、腕の力だけが頼りです。
わたしは腕をお兄ちゃんのお腹に回して、力いっぱいしがみつきました。

安全運転で走っても、学校まではあっという間でした。
学校までの距離がもっと遠ければ良いのに、と思いました。

校門の手前で停まったバイクから降りると、登校中の生徒たちが、
わたしたちに注目していました。
門の裏からUとVが現れて、こちらに走り寄ってきました。

「おはよう」
「おはよー」

Vがわたしの鞄を取り上げました。

「それじゃ、後はよろしく」

お兄ちゃんはUとVにそう言って、軽く会釈して走り去りました。

(続く)

●連載278(ここでの連載097)●
2002年5月6日(月)22時40分

バイクで遠ざかるお兄ちゃんの背中を見送ってから、
わたしは振り返りました。

「知ってたの……? 2人とも」

偶然にしては、あまりにもタイミングが合いすぎていました。

「なにがー?」

Vはなにを訊かれているのか、よくわかっていないようでした。
一方でUは、唇を変な形にして含み笑いしました。

「なんや、兄ちゃんから聞いてへんかったんか?
 兄ちゃんに電話で頼まれたんや、
 アンタの足の具合悪いから学校で世話したってくれ、て。
 送り迎えしてくれるやなんて、ホンマ優しいええ兄ちゃんやなぁ」

Uが感極まった風に言葉を結ぶと、Vも大きくうなずきました。

「そうだったの……ありがとう」

とは言っても、わたしだけが直前まで知らされていなかったのは、
なんとも釈然としませんでした。

UとVに左右から挟まれるようにして、わたしは新しい教室に足を運びました。
残念なことに今年も、UとVはわたしとは別のクラスでした。

新しい教室、新しい担任、そして、見慣れない新しいクラスメイトたち……。
顔なじみの多い病院よりも、居心地が悪いような気がしました。
もう3年生になってしまったのか……時間の流れが速すぎる、と思いました。

始業式の後、ロングホームルームが終わって、
わたしはぼんやり黒板を見ていました。

ふと気が付くと、机の周りを女子の一団に包囲されていました。
1人1人見回しても、見慣れた顔がありません。
なにが起こるのだろう、とわたしは当惑しました。

沈黙を守っていると、その中の1人が、おもねるように話しかけてきました。

「××さん?」

「なんですか?」

ホームルームの時間に自己紹介があったはずですけど、
じっくり顔を見つめても、相手の名前を思い出せませんでした。

「あの……えっと、朝見てたんだけど、あのバイクの男の人、誰なの?」

その興味津々といった瞳が、無性に気に障りました。

「兄です」

「へえー、格好いいお兄さんね。××さん、よかったら一緒に帰らない?」

どうやらこの人は、わたしよりお兄ちゃんの方に興味があるようです。
わたしは鞄を掴んで立ち上がりました。

「いや」

はっきり聞こえるようにそう言って、その人の脇を通り抜けました。
輪になった人たちは呆気にとられたのか、固まったまま動きませんでした。
廊下に出ると、UとVがちょうど迎えに来たところでした。

「○○、兄ちゃんの迎えが来るまで門のトコで時間つぶそか……
 て、どないしたん? 今日は特に目つき悪いな」

「こ、こわいよー」

「……なんでもない」

校門のそばの花壇のブロックに腰掛けて、
新しいクラスのことや、UとVが入る学習塾のことを話しました。

ブロロロロという低音が響いて、お兄ちゃんのバイクが迎えに来ました。
この時期の記憶の中では、朝夕のバイク通学が唯一の胸躍る想い出になりました。

わたしの体は蓄積する疲労と倦怠感に蝕まれていました。
教室では顔を上げて座っているのも困難でした。
授業中ずっと、机に顔を伏せて腕を枕にしているのが当たり前でした。

登下校の際のそれぞれわずか10分ほどでしかない、
わたしの心の中にだけある蜜月は、長くは続きませんでした。

3週間も経たないうちに、尿検査の結果がまた悪化しました。
これで3回目の入院です。病院から帰って、荷造りをしました。
帰宅したお兄ちゃんに入院することになったと告げると、
お兄ちゃんは明るい口調で言いました。

「……そっか。先生の言うこと聞いて早く治るといいな……。
 退院したらお祝いしよう」

でも、その時のお兄ちゃんの顔は翳っていました。
お兄ちゃんはもっとなにか言いたげでしたが、そのまま口をつぐみました。

「うん……」

すまなそうな表情をしているお兄ちゃんに、
そんな顔しなくていいのに、と言ってあげたかったのですが、
喉の奥が詰まってしまって、言葉を続けられませんでした。

(続く)

●連載279(ここでの連載098)●
2003年6月26日(水)8時55分

荷物の入った鞄をお兄ちゃんが手に提げて、二人でバスに乗りました。
3回目ともなると、入院の手続きはもう慣れたものです。
小児科のベッドが空いていないので、内科病棟に行きなさい、と言われました。

内科病棟は、元々裏山だった場所に建てられた新館の中にありました。
真新しくて綺麗な反面、旧館より天井が低くて窮屈でした。
同室の患者さんたちは、お婆さんやおばさんばかりで、
きっと色々と世話を焼いてくれたのでしょうけど、
ふさぎ込んでいたわたしには、おぼろげな印象しか残っていません。

この頃のわたしは、トンネルだらけの山道を運ばれているようなものでした。
お兄ちゃんやUやVがお見舞いに来てくれた時だけ、世界は明るくなり、
そうしてまた、暗い闇に潜って行く……。

わたしは将来を悲観しすぎていたのかもしれません。
でも、UやVが大人になって幸せになる様子は想像できても、
自分が成人して屈託なく笑う未来だけは、見えなかったのです。

それでも、わたしは傍目にはおそらく普通に、日々を過ごしました。
曜日の感覚を忘れ、起きている間は暇さえあれば本を読み、
話しかけられた時は反応して、うっすらと笑うこともありました。
わたしはまだ、本当の絶望というものを、知りませんでした。

入院生活が2週間を過ぎたある日の午後、転機がやってきました。
突然、父親が車椅子を押して病室に現れたのです。ただ事ではない表情でした。
わたしは無言で、父親の顔を見つめました。

「○○、退院するんだ」

え?どういうことだろう?とわたしは思いました。
わたしの検査結果は、まだ退院できるような数値にはなっていませんでした。
父親の後ろで看護婦さんが、泣きそうな顔をしていました。

否応もなくわたしは車椅子に乗せられ、父親の車で帰宅の途につきました。
重苦しい沈黙の中、横目で父親の顔を見ると、険しい顔つきをしています。
父親がぽつりと言いました。

「入院費が高すぎる」

入院して半月が経って、最初の請求があったのです。
続いて父親の口から出た入院費の額は、それまでと桁違いに高額でした。
それを知った父親が病院に乗り込んで、強引に私を退院させたのです。

後になって、その請求はコンピューターの誤りによるものだと判りましたが、
全ては後の祭りでした。

わたしは自分の部屋のベッドで一人になって、自分を納得させようとしました。
思っていたよりも、わたしの家は貧乏だったんだ……と。
入院していても、どうせ薬を飲んで寝ているだけなんだから、たいして変わらない、と。

外が暗くなってきた頃に、お兄ちゃんが帰ってきました。
玄関にわたしの靴があるのを見て、驚いたのでしょう。
すぐにドアがノックされました。

「○○? 帰っているのか?」

「ただいま、お兄ちゃん。入って」

お兄ちゃんはわたしのベッドに腰を下ろしました。
案の定、怪訝そうな表情でした。

「退院するんだったら迎えに行ったのに……どうして急に?」

父親がわたしを無理やり退院させたのだと知ったら、
お兄ちゃんはきっと父親を許さないだろう……と思って、嘘をつきました。

「……入院生活が退屈で……お兄ちゃんの居る家に戻りたかったから、
 先生に無理を言って退院させてもらったの。
 病院にいても寝ているだけだし、自宅療養でもおんなじかな、って」

「ん……? それにしても急な話だな……」

わたしが主治医の先生に駄々をこねたというのが信じられないのか、
お兄ちゃんは釈然としない様子でした。

わたしは笑顔を作って言いました。

「お兄ちゃんは、わたしが帰ってきたら……邪魔?」

「そんなことあるわけないだろ。そりゃ嬉しいけどさ、びっくりしたよ」

「まだ普通食は食べられないけど、ご飯作ってくれる?
 病院のご飯は美味しくなかった」

「ああ、もちろん! 腕によりをかけて作ってやる」

わたしがはしゃいだ声を出すと、お兄ちゃんはやっと笑顔になりました。

「あ……それから、お願いがあるんだけど……」

「ん? なんだ?」

わたしの声はだんだん小さくなりました。

「あの……その……まだ……下のトイレまで行けないから……
 溲瓶とおまるで用を足さなくちゃいけないの……だから……」

お兄ちゃんはにやっと笑って答えました。

「わかったわかった。恥ずかしがらなくてもいいぞ。汚いなんて思わないから」

そう言われても、焼けつくような恥ずかしさに顔が紅潮してきて、
わたしは毛布で顔を隠しました。

「待ってろ。晩ご飯作ってくる」

お兄ちゃんはわたしの頭をぽんぽんと手のひらで押さえて、出ていきました。
わたしの自宅療養は、こうして始まりました。

退院のお祝いは、わたしの体調がまだ良くなっていないので、延期しました。
UとVにはお兄ちゃんから連絡してもらいましたが、
お見舞いに来てもらっても、わたしがぐったりしていては、あまり騒げません。
わたしがなぜ良くなっていないのに退院したのか、二人とも不思議そうでした。

「なんやアンタ、前より顔色悪いんちゃう?」

「そうだよー」

「そうかな……だんだん良くなると思うよ」

無理をして笑って見せても、UとVには通じませんでした。

(続く)

●連載280(ここでの連載099)●
2003年6月27日(金)15時00分

「こないだからずっと元気ないやん……
 別に言いたくなかったら無理に言うことないけど……」

いつもズバリと物を言うUにしては、歯切れの悪い突っ込みでした。

「……ごめん。ホントに、体がだるいだけ。
 ずっと寝てばっかりなのに、すぐ疲れちゃって。
 部屋に閉じこもってると、本に埋もれてるみたいで、
 なんだか……お婆さんになったみたいな気がする。
 体力はお婆さん並みだしね」

笑わせようと、努めて軽く言ってみたのですが、効果はありませんでした。
本当は、胸の内をUとVにぶちまけたい気持ちが一杯でした。
けれど、わたし自身にも、自分がどういう訳でこんなに気がふさぐのか、
はっきりと理解できていなかったのです。

「でも……二人とも、ありがとう、来てくれて」

「はぁ? いきなり何を言い出すんや?」

「来るのは当たり前だよー」

「それでも、ありがたいよ。
 わたしね、お兄ちゃんや、UとVが居てくれる時だけ、
 生きてるんだな、って気がする。
 そうでない時は、本の山に埋もれて、眠っているみたいなものかも」

そう言いながら、わたしは悲観してはいませんでした。
むしろ妙に明るい気持ちになっていました。

「そんな……寂しいこと言わんとき。
 元気になって出歩けるようになったら気分も変わるて。
 教会でもアンタが顔を出さんもんやから、
 日曜学校の子供達も寂しがってるで」

「そうだよー。わたしもさびしいよー」

ああ、友達って本当に良いものだな、とわたしは思いました。
けれど、日曜学校で過ごした日々は、遠い思い出のように霞んでいました。

コンコン、とノックの音がして、お兄ちゃんが入ってきました。
お盆にお茶とお菓子を載せて。

「いらっしゃい。お見舞いに来てくれてありがとう」

「お兄さん、お邪魔してます」

「どういたしましてー」

「○○が疲れたらアカンから、もう帰ります」

「○○ちゃん、また来るねー」

「うん、またね」

「なんのおかまいもできませんで、また来てやってください」

神妙に挨拶を交わす二人とお兄ちゃんを見ていると、笑いがこみ上げてきました。
お兄ちゃんは二人を玄関まで見送って、まだ戻ってきました。

「せっかくお茶淹れたから、飲むか」

「うん」

「なにを笑ってるんだ?」

「UもVも昔から知ってるのに、お兄ちゃんが緊張してるから」

「う……二人とも大人っぽくなってて、調子が掴めないんだ」

お兄ちゃんは頭を掻いて苦笑いしました。

「二人とも、わたしと違って発育がいいもんね」

「ん……お前もまだ大きくなるさ」

「なにが?」

「なにがって……背がさ。恐い顔するなよ」

「ふうん」

お兄ちゃんの困った顔を見るのが楽しくて、わたしはわざと怒ったふりをしました。
顔を背けたわたしの機嫌を取ろうと、お兄ちゃんはベッドに腰かけて、
手を伸ばしてきました。

わたしの髪を撫でながら、お兄ちゃんはつぶやきました。

「お前はまだまだ成長する。
 でもな……○○には、まだ子供でいてほしい気もするんだ。
 つらいことをなんにも知らないままで。
 これも兄貴のエゴなんだろうけどな……」

お兄ちゃんの声は、大人でした。
でもわたしは、自分が大人になる前に死んでしまうのだろうと、
心の中で密かに確信していました。

「わたしは……早く、大人になりたい。
 ひとりでも生きていけるぐらい、強い大人に。
 そうしたら、お兄ちゃんを助けられるかもしれない」

「ん……お前はもう俺を助けてくれてるよ。
 けどまぁ、今は体を治すことだけ考えてればいい。
 焦ることはないさ」

そんな風に言われても、わたしには自分がお荷物でしかないという意識を、
ぬぐい去ることはできませんでした。

それからしばらく経ったある日の夜のことです。
うつらうつらしていたわたしは、物音で目が覚めました。
目蓋を開けると、暗い部屋に、誰かが立っていました。

目を凝らすと……お兄ちゃんではなく、父親でした。
異様な雰囲気に、息を呑みました。
めったに顔を見せることのない父親が、なにをしにきたのだろう、と。

わたしが目を覚ましたことに気づいているのかいないのか、
父親は独り言のようにつぶやきました。
けれどその声は、わたしの耳にはっきりと届きました。

「お前も、もう廃人だな」

(続く)


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