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お兄ちゃんとの大切な想い出 連載241〜250

「お兄ちゃんとの大切な想い出」に掲載した連載241〜250(ここでの連載060〜069)を抽出したものです。番外編もあります。(管理人:お兄ちゃん子)

231〜240
241242243244245
246247248249250
251〜260

●連載241(ここでの連載060)●
2002年3月2日(土)22時20分

初潮が訪れたことを、わたしは両親に告げませんでした。
言ってもどうせ関心を示さないだろう、と思ったからです。
知っていたのは、その現場にいた先生とUとVだけでした。

それからの1週間はわたしにとって、文字通り憂鬱に沈む日々でした。
これから毎月こんなことが続くのか……と思うと、ため息が出ました。
2回目からは予想よりも、いくらか軽くなりましたけど。

その時わたしは教室で、いつものように机にへたばっていました。
ストーブの熱が届かない教室の片隅では、
肩が凝るほど制服の下に重ね着しないといけませんでした。

「なにしてんねん。帰るで○○。寝てるんか?」

「○○ちゃん帰ろうー?」

Uがわたしの肩をつかんでぐにぐにしました。

「起きてる……気持ち良い……もっと」

Uはさっと手を引っ込めました。

「気色わる! 変な声出しないな。寝惚けてるんか」

「むー」

わたしは不満を声に滲ませながら、立ち上がりました。
鞄を持って廊下をふらふら歩きだすと、Uが訊いてきました。

「寝不足かぁ? アンタもしかしてもう準備始めてるんやないやろな?」

「準備……なんの?」

わたしが首をかしげてみせると、Uはにやにやしました。

「わたしらにとぼけることないやん……
 ……て、ホンマに寝惚けてたんか? 
 今の時期に準備言うたらバレンタインしかないやん」

「聖バレンタイン・デー? チョコレート業界の陰謀の?」

Uは苦笑混じりの声で返しました。

「陰謀てなぁ……そらそうかもしれんけど……
 アンタもどうせだれかさんにチョコあげるんやろ?」

「あげない」

「ホンマか!?」
「えええーーっ!?」

UとVは同時に、一大事が起こったみたいな驚愕の声を出しました。

「どうして驚くの?」

「兄ちゃんには、チョコあげてへんかったんか?」

Uはどうしても腑に落ちない様子でした。

「お兄ちゃん、甘いものが苦手だから。
 バレンタインは、わたしがお兄ちゃんからチョコを貰う日だった」

「兄ちゃんのほうからチョコくれるんか? あべこべやないか?」

「お兄ちゃんは、外でチョコ貰ってくるでしょ。
 捨てるわけにもいかないから、ぜんぶわたしがおやつに食べてたの。
 1ヶ月ぐらいはおやつに不自由しなかった」

Vがよだれを垂らしそうな声で言いました。

「うわーーー、いいなあーーー」

Uはため息をつきました。

「ハァ……兄ぃが聞いたら泣いて首くくりそうな話やなぁ……
 その話は兄ぃの前でせんとってな。
 兄ぃはチョコ持って帰ってきたことあらへんねん」

自殺するほどまで重大なことだとは思えませんでしたけど、
わたしはとりあえずうなずきました。

「せやけど、それやったらホワイトデーのお返し大変だったんと違うか?」

わたしは頬をゆるめました。

「ホワイトデーの前にね、お兄ちゃんがクッキーを焼くの。
 手作りだから材料代だけで済むでしょ?
 焼きたてのクッキーは美味しかったなぁ……」

Vが餓死寸前のような、悲鳴に似た声をあげました。

「いいなあーーーーーーーー!!」

Uはげんなりした顔で、口を開きっぱなしにしていました。
しばらくしてやっと、疲れたような声で言いました。

「Vん家で集まってチョコ手作りする予定やったけど……
 アンタは呼ばんでもええな?」

「え……? わたしだけ仲間はずれ?」

「アンタ来てもすることないやろ?」

「味見とか……」

「アンタが食べたいんかい!」

Vが横から割り込みました。

「○○ちゃんも呼ぼうよー。
 その代わり○○ちゃんのお兄さんが焼いたクッキー、
 ちょっとだけ分けてほしいなー」

「……まぁええけどな。チョコあげへんのやったら、
 他のモノにしたらどないや?
 チョコ以外にもお酒とかネクタイとか贈る人もおるで」

「……! それもそうね。
 でも、お兄ちゃんはお酒好きみたいだけど、
 お互い未成年なのに、お酒はまずいんじゃないかな?
 ネクタイも、お兄ちゃんはまだスーツ着ないし」

「お酒とネクタイは例えばの話や」

「うーーーん……」

「本命やったら手作りの心のこもったんがええと思うけどな……
 ぐずぐずしとったら準備の暇のうなってしまうで」

わたしはそれを、今夜の宿題にすることにしました。

(続く)

●連載242(ここでの連載061)●
2002年3月3日(日)22時30分

わたしはベッドに入ってから、夜中まで思いを巡らせました。
でも、チョコレート以外にどんな物を贈られたらお兄ちゃんは一番喜ぶのか、
いくら考えても思い浮かびません。

既製品を贈るにしても、わたしのセンスではお兄ちゃんに似合うかどうか……
手作りの品を贈るにしても、なにを作ってもお兄ちゃんのほうが巧くできそうです。

第一、妹のわたしがバレンタインデーにプレゼントを贈っても、
身内の義理だとしか思われないでしょう。
静まりかえった部屋の底で、わたしは深海魚のようにじっとしていました。

次の日曜日の午後、わたしは買い物に出かけることにしました。
午前中は教会の日曜学校でUやVといっしょでしたけど、
2人を誘いはしませんでした。

わたしは駅前に出て、商店街やデパートを、疲れるまで当てもなく歩きました。
スポーツ用品売り場の前を通りかかって、ふとある物が目に留まりました。
マネキンが頭に着けている、汗を吸う生地でできたヘアバンドです。

冬休みに見たお兄ちゃんは、髪がずいぶん長く伸びていました。
トレーニングの時、ヘアバンドをすれば髪が邪魔にならないはずです。

その白いヘアバンドを着けたお兄ちゃんを夢想すると、
いつもにもまして凛々しく見えてきました。

わたしは即座に同じヘアバンドを陳列棚から取って、レジに直進しました。
レジは混んでいて、わたしは贈り物として包装してほしいと頼めませんでした。

その後わたしはラッピング用品の売り場を探して、
きれいな水色の包装紙のラッピングセットを買いました。

買い物が済めば、もう人混みに揉まれる必要はありません。
わたしは急ぎ足で帰宅しました。

家に着いたわたしは、ご飯も食べずに、ラッピングセットを広げました。
すると、セットに入っていたメッセージカードが気になりました。

白紙のメッセージカードに、どんなことを書いたら良いのか……
直接的な言葉は書けません。
でも当たり障りのないことを書くのは、嘘をついているような気がします。

わたしは1時間もメッセージカードとにらめっこした結果、
カードを入れずにヘアバンドを水色の包装紙で包み直すことにしました。
きちんと納得のいくまで包装できるまで、たっぷりと時間をかけました。

一仕事が終わってホッとしたら、お腹が空っぽなことに気づきました。
わたしはプレゼントを机の上に置いて、食事の支度を始めました。

やがて、バレンタインデーの前日になりました。
夕方からVの家に集まって、キッチンを占拠しました。
今日一日ここは、男子禁制でした。

UとVは、それぞれ自分で選んだ手作りチョコの材料セットを持ってきました。
わたしたちのチョコ作りに、Vのお母さんはノータッチでした。
Vのお母さんは昼間のうちに、自分のチョコ作りを済ましていたそうです。

テーブルの上に積み上げられた材料セットの山を見て、
わたしは思わずUとVの顔を見回しました。

「2人とも、そんなにたくさんチョコをあげるの?」

「わたしは兄ぃとお父ちゃんにや」

「わたしはおにーちゃんとパパと大パパにー」

「……どう見ても、10人分以上あると思うけど……」

「チョコ作りをなめたらあかん!
 チョコを固まらせるときぴったしの温度でないとあかんのや。
 攻撃には守備の3倍の戦力が必要やて言うからな。
 これでもまだ足らんぐらいや。
 失敗したんはわたしらでお茶にしよ」

「備えあれば憂いなしだよー」

「……なんだか微妙に違うような気がするけど……それもそうね」

結果は、Uのことわざ(?)の正しさを証明することになりました。
3人でティータイムにして、今日の戦果の成功したチョコを横目に、
失敗作を胃袋の中に処分することにしました。

舌触りの悪いチョコを噛みながら、わたしは言いました。

「失敗は成功の母……っていうもんね」

「父親はだれやねん?」

「だれかなー?」

「…………」

バレンタインデーの当日、わたしはお兄ちゃんからの電話を心待ちにしていました。
今日は、わたしが贈ったプレゼントが届いているはずでしたから。

でも、夜になっても電話はかかってきませんでした。
わたしが気を揉んで落ち着きをなくしていると、チャイムの音が鳴りました。
玄関に行くと、外から声がかかりました。

「電報でーす」

電報というものをわたしが受け取るのは、これが初めてでした。
イメージと違って、電報の紙にはきれいな模様が入っていました。

電話の前に戻ってわたしが二つ折りの厚紙を開くと、
モノトーンのオルゴールの音色があたりに響きました。
押し花をあしらった、メロディIC電報でした。

電報にはこういう意味のことが書いてありました。

「欧米ではバレンタインに男から花を贈るらしい。
 びっくりしたか? それなら成功だ。 兄より」

その日は結局、お兄ちゃんからの電話はありませんでした。
でもわたしは、電報を抱いて夢見心地のままベッドに入りました。

(続く)

●連載243(ここでの連載062)●
2002年3月5日(火)21時00分

バレンタインデーの次の日、わたしは電報を鞄に入れて登校しました。
教室に着いてUとVに挨拶すると、2人とも気味悪げに目をそらします。

「……? どうしたの? 2人とも」

Uが呆れたような顔で答えました。

「アンタ……顔が怖いで」

Vも横でうんうんと頷いています。

「え?」

怖い顔をしているはずはありません。朝からずっと微笑していたはずです。
わたしは思わず、頬に手のひらを当てました。

「怖い……?」

「鏡見てみ。薄気味悪いぐらいにやけてるで」

そんな……わたしは慌てて頬をきりりと引き締めました。

「なんかエエことあったんか?」

今度はUのほうがにやけた顔で訊いてきました。

「うふふふふ……」

抑えていても、つい笑みがこぼれてしまいます。
教室の隅に3人で移動してから、わたしは鞄から電報を取り出しました。

電報を開くと、またオルゴールの音色がします。
2人に回し読みさせてから、わたしは電報を丁寧にしまい込みました。

「どう?」

わたしは鼻をぴくぴくさせながら、2人に感想を尋ねました。

「すごいねー。わたしもこんな電報ほしいー!」

Vは陶酔した顔で、素直に答えました。
その隣ではUが、頬をひくひくさせて黙っています。

「Uはどう思う?」

「……くっさー。○○の兄ちゃんは外人か? めっちゃキザやん」

「…………ふーん。U、そういうこと言うんだ」

わたしとUのあいだに生じた、見えない火花から身を遠ざけるように、
Vがじりじりと後退しました。

「ケンカはよくないと思うょぉぉー」

結局、その日は一日中、Uと口を利かずに過ごしました。
VはわたしとUの顔を見比べて、困ったような顔をしていました。

翌日になって、Uと顔を合わせたとき、わたしはつい目をそらしてしまいました。
内心は昨日の態度を謝りたいと思っていたのですが、
どう声をかけたらいいのかわからず、きっかけがつかめませんでした。

そっぽを向いているわたしとUのあいだに、Vが腰を下ろしました。

「○○ちゃん、お雛祭りはどうするのー? お雛様飾るー?」

「雛祭り? 別に……なにもしないけど」

思いも寄らないことを訊かれて、わたしは反射的に答えました。
わたしの家ではもともと、雛祭りを祝う習慣はありませんでした。

「そうなのー? それじゃ、うちにおいでよー」

「え?」

「お雛祭りの日に、ごちそう食べるんだよー。美味しいよー?」

黙って聞いていたUが、ぼそりとつぶやきました。

「Vん家ではな、ごっつうでっかいお雛様飾るねん。パーティー開いてな。
 うちにもお雛様はあるけど、比べモノにならんわ」

「うん……行く。V、ありがとう……。
 えっと……U、昨日はごめんなさい。自慢したみたいで、悪かった」

わたしが下を向いてぼそぼそ言うと、Uが照れたように言いました。

「わたしこそ……ごめん。あんな嫌み言うてしもて……自己嫌悪しとったんや」

Vが満面の笑顔になって、はしゃぎ出しました。

「今日もうちにおいでよー。もうお雛様飾ってあるんだよー?」

「うん」

学校の帰り、すっかり馴染み深くなったVの家に、3人で向かいました。
和室の広間の端を、見上げるほど立派な雛壇が占領していました。

「これは……すごいね」

「驚いたやろ。うちも去年見たときびっくりしたわ」

にやりと笑うUは、もういつも通りでした。

やがて、雛祭りの当日になりました。
Vの家には、わたしとUだけでなく、YさんとXさんも招かれていました。

Vのお爺ちゃんが、わたしたちにまでVのアルバムを見せびらかせにきました。
アルバムの写真には、雛壇の前に居る、まだよちよち歩きのVが写っていました。

夜遅く家に帰って、わたしはお兄ちゃんに電話をかけました。
わたしからお兄ちゃんに電話するのは、ずいぶん久しぶりでした。

「○○か……? どうした?」

お兄ちゃんの声は、少し面食らっているようでした。

「今日ね、Vの家で雛祭りパーティーがあったの。
 YさんもXさんも来てた。お兄ちゃんも居ればいいな、って思った」

「……そうか」

「お兄ちゃん、春休みはいつ帰ってくる?」

沈黙が流れて、疑問に思い始めたころ、お兄ちゃんは返事をしました。

「○○……春休みは帰れないんだ」

(続く)

●連載244(ここでの連載063)●
2002年3月7日(木)20時15分

「え……?」

わたしは自分の耳を疑いました。
当然のように、春休みにはお兄ちゃんが帰ってくる、と思っていたからです。

「春休みはバイトするんだ。免許取ってバイク買いたいからな」

受話器から漏れてくるお兄ちゃんの声が、妙に平板に聞こえました。

「いつ……帰ってくるの?」

「そうだな……夏休みになったら、ツーリングがてらバイクに乗って帰るよ。
 4ヶ月ぐらい……すぐだ」

わたしにとっては、それこそ永遠に等しい時間に思えました。

「○○? ……それまで、ひとりでやれるな?」

お兄ちゃんの質問にしては珍しく、肯定を強要するような響きがありました。
わたしは、息を振り絞って、「うん……」と答えるほかありませんでした。

「体の具合はどうだ?」

「……悪くない」

「勉強には付いていけてるな?」

「……だいじょうぶ」

「新しい友達できたか?」

「……まだ」

お決まりの質問が済むと、重苦しい沈黙が降りてきました。
電話越しに聞こえるかすかな息遣いが、わたしとお兄ちゃんをつなぐ、
唯一の絆でした。

「それじゃ……またな」

わたしからかけた電話なのに、お兄ちゃんが幕を引きました。

「うん……お兄ちゃん、またね」

受話器を置くと、いつもお兄ちゃんと電話で話した後とは違って、
胸がきゅっと締め付けられるように痛みました。

雛祭りパーティーで感じた高ぶりは、もう微塵も残っていませんでした。
わたしは久しぶりに胸の空虚さを抱えながら、浅い眠りにつきました。

ホワイトデーが近づくにつれて、漠然とした不安が増してきました。
その日に気づかないまま過ぎてしまうことを、どこかで期待するぐらいに。

3月14日の当日、宅急便で小さな箱が届きました。
包みをほどくと、中にはお兄ちゃんが焼いたクッキーが入っていました。

手紙やカードのたぐいは、なにも添えられていませんでした。
わたしはクッキーを1個指でつまんで、口に入れました。

昔お兄ちゃんが作ってくれた、焼きたてのあつあつとは違う、
冷めたクッキーの味でした。

お兄ちゃんがわたしを置いて、遠く遠くに離れていくような気がしました。
涙が湧いてきて、止まりませんでした。
頬をぬぐいもせず、わたしはぼりぼりとクッキーを囓り続けました。

第2学年に進級する前の春休みには、これといった特別な思い出がありません。
ただ、1人でよく散歩をしました。
当てもなく歩いていると、方向音痴のわたしはよく迷子になりました。

迷子になっても、小さかった頃のように、あわてることはありません。
初めて見る街並みが楽しくて、だれもわたしを知らない街角を、
見知った景色が現れるまで、歩き続けました。

2年生からは、体育の授業にも参加できることになっていました。
体力的に劣るわたしには、長い散歩はよいリハビリになりました。

始業式の当日の朝、クラス割りを書いた紙が廊下に張り出されて、
わたしはUやVと別のクラスになったことを知りました。

知り合いの居ない教室の椅子に1人座って、
わたしは中学時代の1年が、過ぎ去ってしまったのを実感しました。
懐かしい人と別れたような、静かな惜別の悲しみがありました。

新しい担任のf先生は、新任の若い男の先生でした。
まだ経験が少ないせいか、ホームルームの進め方がぎこちなくて、
生徒の失笑を買っていました。

男子生徒にやじられて立ち往生しているところを、
女子の1人に「可哀相でしょ、やめなさいよ!」と助けられる始末です。

弱り切って情けない顔をしているf先生を見ていると、
寝ている時のお兄ちゃんの、子供のようなあどけない表情を思い出して、
わたしもくすりとしました。

f先生は勉強が良くできたようでしたけど、
どうして生徒が問題を理解できないのかが理解できないらしく、
授業は下手でした。

でも、優しそうな顔をしている上にとても熱心で、
運動部系の部活の顧問として、休日も返上していたらしいです。

そのせいか、男性教師の中では女子に一番の人気でした。
お金持ちの一人息子の「お坊ちゃん」だというので、陰ではそう呼ばれていました。
男子の一部からは反感を買っていたようです。

f先生は自分の授業だけでなく、生徒の補習の指導もしていました。
テストの成績が悪かった生徒を、会議室としても使われる指導室に呼んで、
課題を与えて自習させるのです。

定期試験が終わった日、わたしは帰りにf先生に呼び止められました。

「××、ちょっといいか?」

「はい? なんでしょうか」

「立ち話もなんだし、指導室に来てくれるか」

わたしは先生の後について、指導室に入りました。

(続く)

●連載245(ここでの連載064)●
2002年3月9日(土)21時25分

指導室に入ってみると、会議用の長机とパイプ椅子が並んでいました。
f先生は振り返って言いました。

「今日は誰もいないけど、普段はここで補習があるんだ」

「はい……?」

「××も補習を受けてみないか?」

「……わたしの成績、落ちているんでしょうか?」

補習を受けなければならないほど、自分の成績が落ちているとは思えませんでした。

「いや、成績は全然問題ない。
 ただ、1年の時から××は欠席が多いな」

「はい」

「2年になったら授業も段々難しくなってくる。
 家で勉強して遅れを取り返すよりは、ここで自習した方がいいんじゃないか?
 ここでなら、解らないところはすぐに質問できるぞ」

「……そうですね」

わたしは家では勉強していませんでしたけど、それは口にしませんでした。
以前知らないクラスメイトから、どこの塾に行っているのかと訊かれた時、
勉強は学校でしかしていない、と答えたら、信じてもらえなかったからです。

「それじゃ、決まりだな」

「はい。よろしくお願いします」

どうせ早く家に帰っても、本を読むぐらいしかすることはありません。
たとえそれが仕事でも、先生がわたしのことを気にかけてくださるのは、
胸がじんと温かくなるような思いがしました。

2年生になって、クラスが変わり、担任が変わっただけではありませんでした。
新学期から、わたしも体育の授業に出られるようになりました。

でも、元々体力が無い上に、長いあいだ運動していなかったので、
体育の授業は苦行の連続でした。すぐに息が切れてしまいます。

バレーボールのような団体競技の時は、特に憂鬱でした。
わたしがチームの足を引っ張ってしまうからです。
わたしがボールを受け損なった時の、チームメイトの蔑むような視線が苦痛でした。

それに比べたら、補習の時間はオアシスでした。
することがないときは、好きな本を堂々と読むことができました。

黙々と課題に取り組んでいる生徒たちと、その間を巡回して小声で教える先生。
一枚の絵のような光景の中に、自分も含まれているのだ、と思いました。

f先生は、優しくて指導に熱心だというので、女子に人気が出ました。
わたしはやっぱり、新しいクラスの女子のグループにも馴染めませんでしたけど、
f先生の噂話――というよりむしろ歓声――が漏れ聞こえることはありました。

ある女子が、f先生にラブレターを出した、ということまで。
その噂は、わたしには衝撃的でした。f先生はずっと年上で、
クラスで噂されるカップルとは異なる次元に居る、と思っていたからでしょう。

そのラブレターが本気だったのかどうか、わたしにはわかりません。
わたしにとって、f先生は、どことなくお兄ちゃんに似ていて、もっと大人で、
わたしたちを見守ってくれるお父さん、のような印象がありました。

わたしはそれまで図書室によく通っていたのですが、
昼休みや放課後には、指導室に居ることが多くなりました。
指導室では、1人で本を読んでいても、1人ではないような気がしました。

ある時、隣で課題を解いていた女子が、わたしに話しかけてきました。

「××さん、ちょっといい?」

わたしは彼女の名前を知らないのに、
どうして彼女はわたしの名前を知っているのだろう、と思いました。

「……なに?」

「ここ、わかる?」

f先生は、ちょうど他の生徒になにか教えている最中でした。

「ここは……この公式をあてはめて……」

うまく言葉で説明できそうになかったので、
わたしは数式を立てて変形する手順を、省略せずに書き出しました。

「わかった。ありがと」

「どういたしまして」

「も1つ、訊いていい?」

「なにを?」

「××さん、どうしてここにいるの? 成績良いんでしょう?」

わたしは一瞬、答えに詰まりました。

「……ほかに、行くところがないから」

ぽろりとこぼれたこの答えが、本音だったのだろう、と思います。
彼女が納得したかどうかはわかりませんが、それ以上追及はされませんでした。

やがてわたしは、他の生徒に尋ねられて教えることが多くなりました。
補習を受けに来たというよりは、先生の助手のような、微妙な立場でした。
ある日の帰り際、わたしはf先生を捕まえました。

「あの……先生」

「なんだ? ××」

「わたしが他の生徒に教えて、良いんでしょうか?」

「……なんだ、気にしてたのか? いいことじゃないか。
 人に教えるってことは、自分がよく理解してないとできないからな。
 その分、自分にも勉強になる。俺もまだまだだけどな……」

最後のところで、f先生は苦笑しました。わたしもホッとして微笑みました。
他の生徒たちと仲良く話すようになったわけではありませんでしたけど、
自分にも居場所ができたような気がしました。

そんな平穏な日々が終わりを告げたのは、1学期の終わり近くでした。

(続く)

●連載246(ここでの連載065)●
2002年3月11日(月)22時10分

夏休みが近いということで、クラスはどことなく浮ついた雰囲気でした。
わたしは1人、補習を受けに指導室に向かいました。

今日はUとVが待っていないので、読みかけの本を読んでしまうつもりでした。
Vにはお稽古事が、Uには新しいCDを買いに行く予定があったのです。

指導室に入ると、f先生が一番奥に座って、なにか書き物をしていました。
f先生は手元の書類に向けていた視線を上げ、少し頬をゆるめました。
わたしも微笑して、入り口近くの椅子に腰を下ろし、本を取り出しました。

先に補習に来ていた生徒は、名前を覚えていない女子が1人だけでした。
わからない所を時々尋ねてくるので、わたしは読書に集中できませんでした。

たまたまf先生のほうに目をやると、先生は書類を埋める手を休めて、
眉根を寄せたり、唇を変な形に歪めたり、ペンをくるくる回したりしました。

見られていると気づいていない、先生のその仕草が子供のようで、
わたしは思わず見入ってしまいました。
ただ見つめていると、どういうこともないのに、なんだかホッとしました。

ふと、先生が顔を上げて、「どうした?」という顔でわたしを見返しました。
わたしは黙ったまま、微かに首を横に振り、
「なんでもありません」という意思表示の代わりにしました。

やがて、もう1人の女生徒が、塾があるからと言って席を立ちました。
わたしは本をまだ読み終えていなかったので、
最後まで読んでしまってから帰ろう、と思いました。

集中して読書していると、いつの間にか下校時刻になっていました。
校内放送でやっと我に返ったわたしは、椅子を引いて立ち上がり、
固くなった背筋を伸ばしました。

本を鞄に仕舞い、f先生に会釈して、指導室を出ようとした時のことです。
先生がわたしに手招きをしました。

わたしは、なんだろう、と思いながら、鞄を置いて先生のそばに寄りました。
一瞬、なにが起きたのか、理解できませんでした。
わたしは先生の腕の中に、抱きすくめられていました。

意識が凍結してしまったように、止まっていました。
夢の中に居るみたいに、体にも力が入りません。
先生の顔が目の前に来ているのに気づいて、わたしはハッとしました。

「キスされる!」という思考が、稲妻のように体を駆け抜けました。
わたしはパニックを起こして、逃れようと必死に身をよじらせました。

でも、腕力が違いすぎました。
わたしは机に押さえつけられて、身動きできなくなりました。
わたしが暴れたせいか、先生も焦って乱暴になってきました。

「いやーーーー!」

わたしは力を振り絞って絶叫しました。いえ、絶叫したはずです。
手で口を塞がれて叫びにならなかったような気もするのですけど、
声が出ていなかったら、その後の事が理解できません。

突然、扉が勢いよく開いて、生徒指導主任のT先生が飛び込んできました。
f先生は、弾かれたようにわたしから身を引き離しました。

後で聞いた話だと、このときわたしは泣いていて、服が乱れていたそうです。
T先生は物も言わずにf先生を殴り飛ばしました。

f先生は抵抗もせず、座り込んで鼻血を手で押さえていました。
呆然としてそれを見ているわたしを、誰かが立たせました。
白衣を着た保健室の先生でした。

わたしは保健室に連れて行かれ、ベッドに寝かされました。
保健室の先生に問われるままに、わたしは一部始終を話したそうです。

わたしが虚脱状態から回復すると、
待っていたT先生が車で家まで送ってくれました。
その日、どうやってベッドに入ったのか、よく覚えていません。

翌朝目覚めると、昨日のことがぜんぶ夢だったような気がしました。
でも、目が覚めてくると、体が震えだしました。
学校に行きたくない、とわたしは初めて思いました。

それでも、心と体に刻まれた、習慣の力は偉大でした。
はっきりした理由もないのに、無断で欠席するわけにはいきません。
わたしは嫌々ながらも機械的に身支度をととのえ、登校しました。

いつもよりゆっくり歩いて学校に着いてみると、f先生は欠勤していました。
わたしは気が抜けて、椅子の背もたれに深々と体重を預けました。

f先生の代わりにホームルームに現れたのは、生徒指導主任のT先生でした。
T先生は50歳を過ぎて髪の毛が半分白くなっていましたが、
がっちりした体格で筋骨隆々としていました。

人気のあるf先生の代理が鬼のように怖いT先生だというので、
クラスメイトの女子たちは、ぶーぶー不平を漏らしました。

昼休みの時間に、生徒を閉め出して、臨時職員会議が開かれました。
放課後に、わたしはT先生に声をかけられ、校長室に呼ばれました。
校長室では、校長先生と教頭先生が待っていました。

校長先生は、f先生にはしかるべき処分が下ると保証してくれました。
わたしは黙って聞いていました。

でも、わたしの家に謝罪に伺いたい、という校長先生の申し出には、
「けっこうです」と首を横に振りました。

怪訝そうな顔をする先生方に、わたしは告げました。

「まだ、両親にはなにも話していません。
 わたしの父は、厳しい人です。
 このことを知ったら、学校を訴えると思います。
 わたしは、黙っているつもりです」

父親が学校を訴えるだろう、というのは、でたらめでした。
わたしはただ、両親とは口を利きたくなかっただけです。

先生方が顔を付き合わせて、ぼそぼそ相談した結果、
家庭訪問は取り止めになりました。
学校側としても、事を荒立てたくなかったのでしょう。

わたしが校長室から解放されると、T先生が付いてきました。
まだなにか話があるのだろうか、と顔を見ると、
T先生はわたしの目をじっと見つめました。

「××……まだ心の整理がついてないだろうが……
 まぁ、頑張れ。いつでも相談に乗るぞ」

T先生はそう言って、わたしの肩をぽんと叩きました。
わたしはその瞬間血の気が引き、肩をすくめて硬直してしまいました。

「お……おい、大丈夫か?」

目を丸くしているT先生を残して、わたしは歩きだしました。
だんだんと、肩のあたりがかゆくなってきました。

保健室に行くと、保健室の先生が居ました。

「どうしたの?」

先生は、なにげない口調で尋ねました。

「肩が、かゆいんです」

カーテンの陰で紐ネクタイとボタンを外し、ブラウスの肩をはだけてみて、
わたしは絶句しました。

肩口から二の腕にかけて、一面入れ墨のようなミミズ腫れができていました。
言葉を無くしているわたしに、それは「じんましん」だと先生が教えてくれました。

(続く)

●連載247(ここでの連載066)●
2002年3月14日(木)16時40分

保健室の先生は、いつもと変わりない落ち着いた口調で言いました。

「じんましんができたのは、これが初めて?」

「はい……」

かゆさと気持ち悪さが相まって、わたしは吐き気を催しました。
胸がむかむかして、手足が冷たくなりました。
呼吸は浅く速くなり、居ても立っても居られない焦燥感に襲われました。

「気分悪い?」

わたしはうなずいて、硬く強張った体を自分で抱きました。
肩が小刻みに震えるのを抑えようとすると、全身ががくがく震えだしました。

「ベッドに横になりなさい。服はそのままでいいから」

わたしはベッドに横たわって、体を丸めました。
先生は枕元の丸椅子に座って、穏やかな声でわたしに語りかけました。

「あなたぐらいの年頃だと、こういうことは珍しくないの。
 肌に傷が残ったりはしないから、心配は要りません。
 息苦しいと思うけど、じっとしていたらそのうち楽になります。
 先生がずっとここで見てるから、目をつぶって休みなさい」

1時間ほど横になっていると、ふつうに息ができるようになりました。
わたしはベッドの上で身を起こして、先生に声をかけました。

「先生……だいぶよくなりました」

「そう。もう一度肩を見せてちょうだい」

肩をはだけてみると、あんなにくっきり浮かび上がっていたじんましんは、
跡形もなく消えていました。

「……あれは、なんだったんでしょうか?」

「思春期には、心と体が強く結びついているの。
 心が不安定になると、体に症状として表れることがある。
 当たり前のことだから、悩まなくていいのよ」

この後も、わたしの体調が悪いときに、この発作は起きました。
いまでも数ヶ月おきにありますけど、お馴染みにになってしまうと、
冷静にやり過ごせるようになりました。

でも、わたしが男の人の前で平静を保てるようになるまで、
数年の月日が必要でした。
肉体的な接触はもちろん、近寄られるだけで、体が硬直しました。

わたしはあの日の出来事を、だれにもしゃべりませんでした。
f先生の不在は、急病のせいということで処理されました。
ただ、UとVの目だけは誤魔化せませんでした。

新しいゲームソフトが手に入ったというので、
VといっしょにUのマンションを訪れたときのことです。

UとVの後に続いてリビングに続く廊下を歩いていたわたしは、
突然トイレから出てきたYさんと、もう少しでぶつかるところでした。

その場に棒立ちになったわたしから、Yさんはあわてて飛び退きました。
立ち止まったままのわたしを、先にリビングに入ったUが呼びました。

「○○、どないしたん?
 ……て、アンタ真っ青やないか。
 兄ぃ! ○○になにしたんや!」

疑惑を向けられて、Yさんはあわてふためきました。

「い、いや……俺はなんもしてへん……と思う」

「お兄さんは、なにもしてません。
 少し……わたしたち3人だけにしてくれませんか」

「あ、ああ……」

Yさんは逃げるように立ち去りました。
UとVは事態が飲み込めない風で、わたしの顔を心配そうに覗き込みました。

わたしたち3人は、リビングのクッションに腰を下ろしました。
Uが真面目な顔で、口を切りました。

「どういうことか、話してくれるんやろ?」

この2人には、隠し通せないと思いました。

「……秘密にしてくれる?」

UとVはうなずきました。

「実は……」

わたしが一部始終を話し始めると、Uは真っ赤になって憤激しました。
Vは口に手のひらを当てて、目をまん丸にしています。

「ヘンタイ教師が……! ○○、アンタなんで黙ってるのん。
 そんなアホは徹底的に追及してクビにしたらな!」

「f先生……カッコいいと思ってたのにー。ひどいよー」

Vはショックを受けて泣きだしました。
わたしはVの背中をさすりながら、答えました。

「f先生のこと、信じてた。どことなく、お兄ちゃんに似てたし……
 もう、好意はなくなったけど、恨む気にはなれない」

「なんでやの?
 なんぼ兄ちゃんに似てたからいうて、今さらかばうことないやん」

「どうして、わたしだったんだと思う?
 わたしより大人で綺麗な子が、他に居たのに」

「そら……アンタが大人しゅうて抵抗せん思うたんとちゃうか?」

「それもあるかもしれない……でも、それだけじゃないと思う。
 去年、Uは言ったよね。わたしの目つきは、喧嘩売ってるか、
 色目つかってるように見える、って」

(続く)

●連載248(ここでの連載067)●
2002年3月15日(金)21時30分

「……どういうことや?
 まさかアンタ、先生を誘ってた、て言いたいんか?
 アンタはそんなつもりやなかったんやろ?」

「……うん」

「もし誘われてる思うたとしてもや、それは勘違いやん。
 確かめもせんと押し倒すやなんて最低や!」

Uの怒りは、口から火を噴きそうな勢いでした。

「最低だよー」

校長先生が事件を知った以上、このままでは済まないでしょう。
まるで背中に重い荷を背負ったような、息苦しさを覚えました。
わたしはうつむいて、胸を押さえました。

「……そうだけど、これで先生の人生が変わっちゃうのかと思うと……」

「自業自得や」

「…………」

「さっき様子が変やったんもそのせいか?」

「うん。お兄さんはなにもしてないんだけど、
 体が勝手に硬直して、冷や汗が出てくる……」

「兄ぃが信用でけへんか?」

わたしは下を向いたまま、首を横に振りました。

「そんなことない……。お兄さんは良い人だと思う。ごめんなさい……
 ……だけど、体が勝手に……T先生の……ときも……そうだったし……」

思い出すと、体中の筋肉が引き絞られて、肩が震えてきました。
顎も硬直して、言葉を続けるのがひどく難しくなりました。

わたしが自分の肩を抱いて、ぶるぶる震えていると、
Vがべったりと背中にくっついてきました。

「もうええ……無理してしゃべらんとき」

どれくらい時間が経ったのか、やっと緊張がゆるんできました。

「はぁ……はぁ……ありがとう。もう、だいじょうぶだから」

Uはなにか痛ましいものを見るかのように、
視線を揺らめかせながら言いました。

「男やったら……誰でも同じか? 『お兄ちゃん』でもか?」

「……わからない」

もし、お兄ちゃんに触れられて、じんましんができたりしたら……
と想像するだけで、目の前が真っ暗になりそうでした。

Uは、にやりと笑いました。

「大丈夫やて。アンタ、お兄ちゃんは特別なんやろ?
 神様よりも信じてる、て言うたやん」

まだわたしの背中にくっついているVが、耳元でささやきました。

「そうだよー。だいじょうぶだよー」

わたしは黙って、何度もうなずきました。
この日は結局、ゲームどころの騒ぎではありませんでした。

UとVは、秘密にするという約束を守ってくれました。
事件のことはこの後も、噂にはなりませんでした。

もしどこかから秘密が漏れて、生徒のあいだに噂が流れていたら、
わたしのほうが悪者にされていたかもしれない、と思います。
そしてたぶん、わたしは確信をもって噂を否定できなかったでしょう。

1学期最後のホームルームで、f先生の居ない教壇にT先生が立っているのを、
わたしは安堵とかすかな悔いの入り混じった気持ちで見つめました。

夏休みに入ってすぐ、T先生から電話がかかってきました。

「連絡が遅くなってすまん。
 f先生は……退職して実家のある田舎に帰ることになった。
 ××にとっては納得のいかん処分かもしれんが……
 これで2学期からは安心して学校に来られるな」

T先生自身も納得していないような口ぶりでしたけど、
処分に至る経緯をわたしに話すことはできないようでした。

「……はい。いろいろとありがとうございました」

わたしは、f先生のことは忘れて、お兄ちゃんが帰ってくるのを待とう、
と思いました。

お兄ちゃんは、8月になったら帰ってくる予定でした。
ただ、障害が1つだけ残っていました。
わたしがまったく泳げない、という問題です。

泳げない生徒には、夏休みに水泳の補習が課されるのです。
男子は50メートル、女子は25メートル泳ぐのが最低ラインでした。

1年生のときは体育の授業を免除されていましたが、今年はそうはいきません。
2年生になっても泳げないのは、わたしぐらいのものでした。

怖くて水の中で目を開けられず、浮かぶことさえできないのですから、
なんとも情けない話です。

スクール水着に着替えて、1年生の集団からぽつんと離れたわたしは、
学校のプールの水際で、きっと1週間で25メートル泳げるようになる、
と決意しました。

翌日から、午前中は学校のプールに、午後は公営のプールに通いました。
健康的に日焼けした肌が羨ましくて、あえて帽子をかぶらずに、
半袖のワンピースを着て、夏の日射しの下で自転車をこぎました。

最初は、水の中で目を開けることから始めました。
体の力を抜いて、水に浮くようになるまでが大変でした。
けれども目的を持ったわたしの辞書に、諦めるという言葉はありませんでした。

(続く)

●連載249(ここでの連載068)●
2002年3月17日(日)20時30分

家に帰ってしばらくして、日射しに晒された肌が真っ赤に熱を持ってきました。
お風呂のお湯に浸かると、全身を針で刺されたような痛みに涙が出ました。
布団に入っても背中がちくちくして、なかなか寝付けませんでした。

朝になって目が覚めた後、起きあがるのにまた一苦労でした。
手足が棒になったみたいに固くなっていて、筋肉痛に背中が悲鳴を上げました。
わたしは意志の力だけで、体を無理やり動かしました。

学校のプールで練習を終えて、公営プールへと自転車をこぐわたしは、
きっと歯を食いしばったもの凄い顔つきをしていたと思います。

ただ体を水に浮かせるだけという、次のステップが一番の難題でした。
理論的に人体は水に浮く……ということはわかっていても、
体の力が抜けていないと、なすすべもなく沈んでしまいます。

本能的な水への恐怖感は、理屈で考えてもなかなか抜けません。
バランスを崩さずに自転車をこぐコツと同じで、体に覚えさせるしかありません。

わたしはショック療法として、先に飛び込みの練習をすることにしました。
飛び込み台を蹴ってしまえば、空中で後戻りはできないからです。

プールの飛び込み台に立つと、目の高さから水面までは2メートルもないのに、
ビルの屋上に立っているような気がしました。

いつまでも中腰のまま固まっているわけにもいきません。
下に人が泳いでいないのを確かめてから、
思い切ってわたしは宙に身を躍らせました。

遠くへ飛ぼうとしすぎて、胸と腹をまともに水面に打ち付けました。
わたしは息が止まってしまって、そのまま溺れてしまうところでした。

飛び込む角度を計算して、頭から飛び込むようにしなければいけません。
2回目は深く飛び込みすぎて、プールの底すれすれまで潜りました。

何度か繰り返すうちに、コツがつかめてきました。
体をまっすぐに伸ばして、思い切って頭から水に飛び込むのです。
うまくいくとそれだけで数メートル先に進めます。

やがて恐怖心が薄らいだのか、しばらく水に浮いていられるようになりました。
次の問題は、手足の連携と息継ぎでした。

クロールで泳ごうとすると、手と足を違うリズムで動かさなくてはいけません。
手に集中すると足がおろそかになり、足に集中すると手が止まってしまいます。
その場でばたばた水を叩くだけで、ちっとも前進しません。

そのうえ、息継ぎのタイミングがうまくつかめず、息が続きません。
横から見ていたら、きっと溺れているようにしか見えなかったことでしょう。

わたしは方針を転換して、平泳ぎに集中することにしました。
スピードは出ませんけど、どうせ水泳の課題にタイムは関係ありません。
どんな泳ぎ方でも、25メートル泳ぎ切れれば良いのです。

平泳ぎと言うよりは、死にそうな蛙がもがいているような体勢でしたけど、
曲がりなりにも前に進めるようになりました。

残る問題は、わたしの体力です。1年以上ろくに体を動かしていなかったうえに、
わたしにはもともと、腕力も持久力もまるっきりありませんでした。

力の続く限り泳いでも、息が切れてプールの底に足を突いてみると、
5メートルも進んでいませんでした。

こればかりは、理論もコツも関係ありません。反復練習あるのみです。
わたしは毎日、唇が紫色になるまで泳ぎ、プール際にうずくまって休む、
を繰り返しました。

一日が終わると、もうくたくたで、UやVと遊ぶ暇も元気も残りませんでした。
日曜学校で顔を合わせると、2人ともわたしを一目見て目を丸くしました。

「アンタ……大丈夫か? 目が真っ赤やで?」

「だいじょうぶ。プールのカルキのせいだと思う」

「首も赤いよー? 腫れてるみたいー」

「……なかなか日焼けしないみたい。
 それより……ふふふふふふふ……わたし、泳げるようになったよ」

「そ……それはおめでと。
 そやけど、アンタちょっと怖いで。鬼気迫るちゅうか……。
 ほどほどにしときや?」

「もう、あんまり時間がないの。なんとしてでも課題をクリアしなくちゃ」

「アンタ……背中が燃えてるんとちゃう?」

Uは苦笑いし、Vは顔が引きつっていました。

課題に挑戦する当日は、UとVが見物にやってきました。
わたしはなんとか、20メートル泳げるようになっていました。
飛び込み台に立つと、プールの脇で見物しているUとV、
それに体育教師のT先生、補習に来ている生徒たちが目に入りました。

注目を浴びるのに慣れていないせいか、心臓がどきどきしました。
でも、深呼吸を繰り返すと、肚が座ってきました。
ここは覚悟を決めるときです。

前傾姿勢を取り、手を振って頭から飛び込みました。
お腹を打たず、スムーズに水に飛び込めました。

そのまま惰性で行けるところまで距離を伸ばしました。
そこからが長い道のりです。
手足を動かしても、じれったいほどゴールは遠いままでした。

あとは力を出し切って、前に進むしかありません。
息継ぎの際に、少し水を飲んでしまいましたけど、立ち止まったら失格です。

20メートルラインまで来て、もう目の前がよく見えなくなりました。
いくら手足を必死に動かしても、プールの壁に手が届きません。

もう手も足も動かない……というぎりぎりのところまでいって、
ようやくプールの縁に指が当たりました。

足を底についてみると、そこはゴールではなく、プールの横の壁でした。
わたしはいつの間にか、途中で90度方向転換していたのです。

がっかりしてプールの縁に顔を伏せたわたしに、
T先生が声をかけました。

「距離は25メートル超えてたぞ。合格にしておく」

わたしがUとVに引っ張り上げられているあいだに、
T先生は補習カードに合格のスタンプを押してくれました。

これで、お兄ちゃんが帰ってきたとき、障害は何もない、と思いました。
でも、その考えは甘かったのです。

(続く)

●連載250(ここでの連載069)●
2002年3月18日(月)20時10分

翌朝ベッドの中で目覚めたとき、わたしは異変に気づきました。
体が思うように動きません。
そのうえ、ひどい寝汗をかいていて、背筋がぞくぞくしました。

立ち上がるとめまいがして、ふらふらしました。
首や手が熱を持っているみたいで、ちりちりします。
下着とパジャマを着替えて、またベッドに逆戻りしました。

腎臓への影響がありますので、下手に薬は飲めません。
病院に行かなくちゃ、と思いながら、ご飯も食べずにそのまま寝ていました。

うつらうつらしていて、なにかの物音で目が覚めると、もう昼過ぎでした。
また汗をかいたみたいで、下着がべったり肌に張りついています。

ぼんやりした頭で、階段を上る足音を聞いていました。
コンコン、とドアがノックされました。

「○○、いるのか?」

お兄ちゃんの声が聞こえる、と思いました。
がちゃ、とドアが開いて、お兄ちゃんが入ってきました。
夏だというのに、革のジャンパーを着ていました。

「寝てたのか? ただいま。
 ……お前、どうしたんだ? 顔が真っ赤じゃないか!」

「ん……お兄ちゃん、おかえりなさい」

わたしがニコニコすると、お兄ちゃんが額に手を当てました。

「すごい熱だ……薬は飲んだのか?」

「薬は勝手に飲めないの。病院いかなくちゃ」

「すぐ着替えるんだ。病院に連れていってやる」

「うん」

わたしはベッドから降りて、タンスに向かいました。
なぜかまっすぐに歩けなくて、肩からタンスにぶつかりました。

「あれ? あれ?」

わたしが座り込むと、お兄ちゃんがわたしを抱えてベッドに戻しました。

「しょうがない。着替えさせてやる」

「うん」

頭がうまく働かないわたしは、着せ替え人形のようにされるがままでした。
汗で濡れていたので、下着まで替えてもらいました。
この時朦朧としていて、お兄ちゃんの様子を覚えていないのが残念です。

お兄ちゃんはタクシーを呼んで、わたしを担ぐようにして病院に行きました。
お兄ちゃんが窓口で掛け合って、順番を飛ばして診てもらえました。

幸い、尿検査の結果はまだ悪くなっていませんでした。
太い注射を左腕に打たれ、薬をもらって帰りました。

家の階段をお兄ちゃんに負ぶわれて上りながら、わたしはつぶやきました。

「ごめんなさい。せっかく帰ってきてくれたのに、台無しだね」

「気にすんな。病気のときぐらい甘えろ」

今度は自分でパジャマに着替えることができました。
わたしがベッドに寝ると、お兄ちゃんがスポーツドリンクと薬を持ってきました。

「飲み薬と座薬だ。座薬は自分で入れられるか?」

「座薬?」

「……お尻に入れる薬だ」

「お兄ちゃん、やり方知ってる?」

お兄ちゃんは薬の説明書きを読み、銀色のパッケージを破って、
細長い座薬を取り出しました。

お兄ちゃんが背中を向けて、わたしは言われる通りにうつぶせになりました。
パジャマをずらし、お尻を少しあげて、自分で入れようとしましたが、
うまく入りません。

「……まだか?」

「……うまく入らない。どうしよう?」

「……ハァ。しょうがないな」

お兄ちゃんは大きなため息をついて、座薬をわたしの指から取りました。
しばらくして、お尻の穴に冷たい物が触れました。

「○○……力を抜いて」

さすがにどきどきして、なかなか力が抜けませんでした。
わたしが力を緩めると、一気にぬるっと異物感が奥まで入ってきました。

「うっ」

お尻を下ろして、そのまま1分ぐらい、
お兄ちゃんの指がお尻の穴の蓋をしていました。

お兄ちゃんはベッドの縁に腰を下ろして、一仕事を終えた、という感じで、
大きく何度もはぁぁと息をしました。

「これで安心かな。まだご飯食べてないだろ。お粥作ってくる」

出て行こうとするお兄ちゃんを、わたしは呼び止めました。

「待って」

「ん……どうした?」

「こっち来て」

「どうしたんだ?」

枕元に来たお兄ちゃんの手のひらを取って、わたしは自分の首筋や頬に、
ぺたぺたと当てました。

「なんともない……よかった」

「お前……ホントに大丈夫か?」

(続く)


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