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お兄ちゃんとの大切な想い出 連載311〜320

「お兄ちゃんとの大切な想い出」に掲載した連載311〜320(ここでの連載130〜139)を抽出したものです。番外編もあります。(管理人:お兄ちゃん子)

301〜310
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316317318319320
321〜330

●連載311(ここでの連載130)●
2003年7月23日(水)13時25分

クリスマスイブの一日は、厚い雲の隙間から射す一条の光でした。
この日を過ぎると、しだいにわたしの体調は悪化していきました。
泥の中を這いずっているように体が重いのです。

この時期に再び入院することにでもなったら、
高校の入試に間に合わないかもしれません。
わたしは最小限ぎりぎりまで活動レベルを落としました。

半ば微睡まどろんだような意識の中、気が付いたら大晦日です。
U、V、hさんと四人で、この日の深夜に初詣に行く約束をしていました。
夕方まで、わたしはじっと息をひそめて体力の回復を待ちました。
でも……治りません。

わたしは仕方なく、三人に電話をかけました。
電話機のある階下に降りるだけで、恐ろしいほどの気力が必要でした。
受話器を持ち上げる時には、もう眩暈がして息が切れていました。

Uに行けない旨を伝えると、Vとhさんを誘って見舞いに行くと言われました。
わたしを置いて初詣に行ってほしいと頼んでも、聞き入れてくれません。
疲れきっていたわたしは、後の始末をUに任せてベッドに入ることにしました。

うつらうつらしているうちに、かなり時間が経っていたのでしょう。
玄関からチャイムの音が聞こえてきました。
鍵を開けると、晴れ着姿のUとVが入ってきました。

「○○、だいじょうぶか? 顔色悪いで。家の人はだれもおらへんのか?」

「……どこかに出かけたみたい」

「○○ちゃん、ご飯食べたー? なにか作ってあげるねー」

「あんまり食欲がないの」

ふと、hさんの姿が見えないことに気が付きました。

「あれ、hさんは?」

Uが頭をかきました。

「hさんとは行き違いになってしもたんや」

hさんは約束の時間より早めに家を出ていたのです。

「大変! hさんは待ち合わせ場所で待ってるんじゃない?」

「そうやな。わたしも気になったんやけど、アンタのことが心配でな……。
 今から行って呼んでくるわ。V、後は頼んだで」

「合点承知だよー」

「外は寒いのに……」

hさんのことが心配でしたが、今のわたしにはなにもできません。
大人しくベッドで待つしかありませんでした。

しばらくすると、Vが糊状に変質したおかゆを持ってきました。
好意なので食べないわけにはいきません。

「ありがとう、V」

(うっ……まずい……)

Vは明らかに、料理の才能が根本的に欠けているようでした。

電話のベルが鳴りました。Uからです。
Vが代わりに電話を受けに行きました。

「○○ちゃーん、hさんが見つからないんだってー」

戻ってきたVはおろおろと意味もなく部屋を歩き回っています。
どういうわけか、hさんとUはまた行き違いになってしまったようです。

探しあぐねて戻ってきたUは、疲れた顔で頭を下げました。

「ごめん……hさん連れてこられへんかった」

「わたしこそ……ごめんなさい。せっかくの初詣が……」

「病気なんやからしゃあないやん。
 アンタはのんびりして早くようなることだけ考えとき」

「そうだよー。元気が一番だよー?
 明日教会でおもちつきがあるから、つきたてのおもち持ってきてあげるね?」

Vの言葉には脈絡がありませんが、好意だけは一貫しています。
キリスト教会の行事に餅つき大会があるのは不思議ですが、
それも地元に溶け込む努力の一環なのでしょう。

翌日、元旦の午後になって、やっと少し気力が湧いてきたわたしは、
hさんの家に電話を掛けました。

「もしもし……××と申します。**さんのお宅ですか?」

「はい、**です。hのお友達? あけましておめでとう」

「はい、あけましておめでとうございます。
 hさんはいらっしゃいますか?」

「はいはい、ちょっと待っててね」

お母さんらしき人は、hさんを呼びに行き……
やがて戻ってきて、困ったような声でわたしに告げました。

「ごめんなさいね。あの子、気分が悪いと言って布団から出てこないの。
 急な用事だったら伝えておきますけど?」

「あ、いえ、新年の挨拶をしようと思っただけです。
 よろしくお伝えください」

hさんはゆうべ寒い中で待ちぼうけをして風邪でも引いたのだろうか、
と思いました。謝らなければなりません。

けれど、伏せっているというhさんに電話をするのは気が引けました。
わたしも相変わらず体調が思わしくなく、見舞いにも行けません。

そうこうしているうちに、新学期が始まりました。
朝早く、学校の手前の道で、
背中を丸めて歩いているhさんを見つけて声を掛けました。

「hさん、おはよう」

ハッと伸び上がるように立ちすくんで、振り返ったhさん。
その顔を見た瞬間、わたしは衝撃に打ち据えられました。
いっぱいに見開かれたhさんの両の目は、涙に濡れていました。

(続く)

●連載312(ここでの連載131)●
2003年7月24日(木)14時40分

眉根を上げたhさんの表情は、まるで違った人のようでした。
泣いてはいても、その眼差しに宿っているのは、突き刺すような怒り。
わたしは度を失って、とっさに謝罪の言葉を口にしました。

「あ……hさん……ごめんなさい」

hさんはなにも語りません。重苦しい沈黙が、体を締め付けてきます。

「……初詣の約束、守れなくて……」

「違うッッ! そんなことで怒ってるんじゃナイッ!」

突然降って湧いたhさんの怒声に、わたしは棒立ちになりました。

「え……? それじゃ、なにを……」

「自分の胸に聞いてみればいいデショッ!」

顎を突き出し、軽蔑の眼でわたしを見下ろしてから、
hさんは身をひるがえして駆けていきました。
走って追うことのできない自分の体が、この時ばかりは恨めしくなりました。

わたしはその場に立ち止まったまま、胸に手を当てました。
思い当たるふしはありません。
hさんはなにか誤解をしているのではないか、と思えます。
わたしはいっそう重くなった足取りで、学校への道をたどりました。

この後、すぐにhさんを掴まえて、誤解を解く努力をするべきでした。
けれど、あの怒りの視線を目の当たりにしたわたしは、腰が引けてしまいました。
完全にわたしを無視するhさんに、話しかける勇気がありません。

そして間もなく、わたしは再び入院することになりました。
hさんに会わずに済む……と、ほっとする気持ちもどこかにありました。

病院に見舞いに来たUとVに、hさんの話をしました。

「なんやそれは。おかしいんちゃうか?
 初詣のことはわたしも謝りに行ったけど、そんときはふつうやったで」

首を傾げてUは不思議がりました。

「もしかしたら……誰かからウソを吹き込まれたんかもしれへんな」

「どういうこと?」

「例えば、アンタが陰でhさんのこと馬鹿にして悪口言うてたとか……」

「わたしがそんな人間だと思ってる?」

話に割り込めないでいたVが、すかさず口を開きました。

「そんなわけないよー。○○ちゃんはひどいことも言うけどー、
 相手に直接言うもんねー」

「V……それ、フォローのつもりなの?」

わたしが睨むと、Vはさっと目を逸らしました。

「ぷっ、Vの言うとおりやな。
 アンタは素でキツいこと言うことがあるからな。
 頭のええアンタに言われたら、
 それだけで自分が馬鹿にされてるように思うアホもおるで」

「Uだって、十分にキツいんじゃない?」

「わたしのは半分冗談みたいに聞こえるやろ?
 アンタのはいつもマジやん」

「そんなこと言われても……」

「アンタに反感もってウソを言いふらしてるアホがおるんかもしれへんな。
 hさんに話聞いてみて犯人突き止めたろか?」

「それは……もういいよ」

「ええことあるかい! ワケわからんうちに嫌われて、
 アンタは我慢できるんか?」

「UやVはわたしを信じてくれた。それで十分。
 誰からなにを聞いたのか知らないけど、hさんはわたしを信じられなかった。
 わたしに確かめもしないで。
 今さら仲直りしても、もう遅い……」

嘘でした。平気では、ありませんでした。
ただ……怖かったのです、hさんと対決するのが。

今から振り返ると、やはり誤解を解く努力をするべきだった、と思います。
hさんとは中学卒業後会う機会がなくなり、所在も判らなくなりました。
もう、誤解を解くチャンスさえ残されていません。

わたしはhさんの陰口を叩いていませんし、馬鹿にもしませんでした。
けれど、hさんをUやVとは違う、一段低い存在と見ていたことは事実です。

hさんをわたしが本当の友達だと思っていたら……。
失いたくない親友だと思っていたら、たとえhさんに非があっても、
追いかけて話をしようとしたはずです。

hさんには、人の顔色をうかがうような態度が見て取れました。
たぶん、いじめの対象になっていたのだと思います。
それなのに、わたしはhさんに悩みを尋ねることはありませんでした。
UやVを特別視して、hさんのことを真剣には考えていなかったのでしょう。

今頃になって、hさんの居ないところでこんな話をしても、
それはわたしの自己満足に過ぎません。
取り返しのつかない後悔を胸に刻んで、わたしは生きていきます。

(続く)

●連載313(ここでの連載132)●
2003年7月25日(金)17時40分

入院生活も5回目となると、わたしは病院のヌシのようなものでした。
最初の時に新米だった看護婦さんも今ではベテランです。
新しく入ってきた看護婦さんよりも、
わたしの方が病院の事情に詳しかったかもしれません。

騒がしく馴染めないでいた教室や、あの父親の居る暗い自宅と比べると、
静かで少し消毒薬くさい病室は、わたしにとって心安らげる場所でした。

一日の大半を寝ているしかない漂白された日常の中で、
世界に彩りが戻るのは、UやVが来てくれた時、それから……。

読みかけの文庫本を枕元に伏せて、目を休めるために目蓋を閉じていると、
わたしにはいつもすぐに聞き分けられる、懐かしい足音がしました。

「○○……寝てるか?」

囁くような、小さな声でした。

「お兄ちゃん、来てくれたんだ」

目蓋を開いてお兄ちゃんの顔を見ると、自然に微笑みがこぼれました。

「ん……いつものやつ、持ってきたぞ」

冷やして蜂蜜をかけた、すり下ろしリンゴです。
スプーンですり下ろしリンゴを食べるわたしの顔を、
お兄ちゃんはしばらく黙って見ていました。

「思ったより元気そうで安心したよ」

「お兄ちゃんも」

お兄ちゃんの顔色は、やつれていた頃とは見違えるようでした。
こうしてお兄ちゃんのリンゴを食べていると、
3年以上も昔、最初に入院した当時に戻ったような錯覚がしました。
まだわたしが憎しみも失意も知らなかった、あの頃に。

「なにが可笑しいんだ?」

不思議そうにお兄ちゃんが訊きました。

「夢を、見ていたの。とても良い夢」

「どんな夢だ?」

「ごめんなさい。もう思い出せない。
 覚えているのは、良い夢だった……ってことだけ」

お兄ちゃんの問いかけをはぐらかして、にっこりと笑いました。
幻影だと解っていても、思い出さずにはいられない、
今の気持ちを話したら、心配するに違いないと思ったのです。

わたしはもう、無垢な小学生ではなく。
お兄ちゃんもまた、かつての万能に見えた完璧な偶像ではなく。
わたしたちは、ただの仲の良い兄妹ではなくなっていました。

あの頃に見えなかった色んなものが、今は見えました。
追いつけないほど大人だと思ったCさんの歳を、いつの間にか追い越して。
わたしは大人になったのでしょうか?

「いつまで思い出し笑いをしてるんだ?
 今度見たら、ちゃんと覚えて教えてくれよ」

わたしに釣られた満面の笑顔で、お兄ちゃんが言いました。

「うん。お兄ちゃんにだけ教えてあげる」

それからお兄ちゃんは仕事場の喫茶店で会った変なお客さんの話を、
面白おかしく語ってくれました。
相づちを打ちながら、お兄ちゃんの顔に見入りました。

以前のように力強く、自信に溢れた精悍な男の顔。
けれどその背後に深い苦しみと悲しみが隠されているのが、
今のわたしには判ってしまいます。

わたしより先に大人になって、どれほどの孤独に耐えてきたのか……。
それを尋ねるわけにはいきません。
お兄ちゃんがわたしを守ろうとした努力を、無にすることになりますから。

できるのは、ただひたすら目で語りかけることだけです。
こんなに弱いわたしなのに、力が湧いてくるようでした。

(お兄ちゃん……無理はしないで。わたしは大丈夫だから)

「ん……どうした? 真剣な顔して」

「え? なんでもない」

「そうか……?
 ところで、高校の入試までに退院できるかな……。
 先生はなんて言ってる?」

「微妙だって。退院できなかったら浪人決定ね。
 試験ぐらいは受けておきたいけど……」

「まあ、今さらジタバタしてもしょうがないさ。
 もし駄目でも、長い目で見たら1年ぐらいどうってことないって」

お兄ちゃんはことさらなんでもない風に言いました。

「もし受験できたら、発表の日はいっしょに見に行こう。
 合格のお祝いもしなくちゃいけないし」

「え……でも、どうせ不合格だと思う。ちっとも受験勉強してないから」

「それでもいいよ。その時は残念会にするだけさ。
 ご馳走でも食べに行こう。
 あ……ふつうのレストランだとまだ駄目か」

「パフェならだいじょうぶ」

受験の日までに退院できればいいな……と思いました。
自宅に帰りたかったわけではありません。
でも、お兄ちゃんを失望させたくはなかったのです。

(続く)

●連載314(ここでの連載133)●
2003年7月27日(日)22時40分

わたしのささやかな願いは、叶えられました。
ただ、退院してから入試の当日まで、あと2週間もありません。
今さらあわてて受験勉強をしても無駄でしょう。
無理をしたら、試験どころか再検査を受ける羽目になります。

入試の当日までは、体力を温存することに努めました。
まだ寒い季節でしたので、風邪を引かないことが第一です。
この時期に熱でも出したりしたら、今年の入試は絶望的です。

けれど、まったく外に出ないわけにもいきません。
わたしは願書を出した高校を、未だに一度も見ていませんでした。
方向音痴のわたしが当日の朝に迷子にでもなったら、悲劇というより喜劇です。

入試直前の日曜日、わたしは朝から出かけました。
制服のブレザーの下に厚手のセーターを着込み、オーバーコートにマフラー、
ウールの手袋をはめて靴下を二重にするという完全装備です。

空いたバスに30分ほど揺られて、高校の近くで降りました。
停留所から高校まで続く道は、少し勾配の急な登り坂になっていました。

坂道の両側には、真新しい一戸建ての住宅が建ち並んでいます。
ゆっくりゆっくり登っていくと、正面から吹き下ろしてくる風で顔が凍りそうでした。
わたしはきっと自分が引きつったすごい顔をしているだろうな、
と思いながら、涙目をぱちぱちさせました。

急に視界が開け、鉄筋コンクリートの校舎が見えてきました。
改装してそれほど間がないのか、クリーム色の外壁が綺麗です。
校門の赤い鉄扉は、少し開いていました。
わたしは扉と門柱の隙間をすり抜けて、中に入りました。

左手に見えるグラウンドの遠くの方では、
ユニフォームを着た一団がランニングをしています。
なにかの部活動なのでしょう。

初めての場所だけあって、なにを見ても物珍しく映ります。
校舎の周りを一周しようと、右手にある平屋の建物に向かいました。
中を覗いてみると、下足用のロッカーがぎっしり並んでいました。

左を見ると、校舎と校舎の間は中庭になっていて、花壇と池がありました。
人の気配はなく、部活のかけ声らしきものが遠くから聞こえてくるだけです。

奥の校舎の右側面を回り込むように足を進めました。
テニスコートがあり、緑色のジャージを着たペアが球を打ち合っていました。
高いフェンスの手前でしばらく佇んでいると……。

「なにをしてるの?」

突然だれかに声をかけられて、わたしはビクッと背を伸ばしました。
振り返ると、光沢のあるストレートの髪を肩まで伸ばした女の人が、
面白いものを見るような目で、わたしを見ています。
紺のブレザーとネクタイから、在校生と一目でわかりました。

「あの……わたしは受験生で……」

「あっ、そうか。下見に来たわけね」

「はい」

「部外者は立ち入り禁止なんだけど、それならいいんじゃない。
 もしかしたらわたしの後輩になるわけね。
 ちょうど用事が済んで帰るところだし、一回り案内してあげようか?」

「あ、はい。よろしくお願いします」

「わたしはi、よろしくね」

「はい、わたしは××と申します」

中学校の卒業を控えて、自分も少しは大人になったかも……
と考えていましたが、i先輩の落ち着いた物腰を見ていると、
自分がまだまだ子供に思えました。

歩きながら話してみると、先輩は生徒会の役員でした。
生徒会の仕事をするために、日曜日にわざわざ登校していたのです。
在校生がみんなこれほどしっかりしているわけではなさそうだとわかって、
内心ほっとしました。

「ふぅん、最近まで入院してたんだ。大変なのね。
 試験、受かるといいね」

「はい、ありがとうございます」

「そんなにかしこまらなくていいよ。
 わたしの弟もここを受験することになってるから、
 もし同じクラスになったら仲良くしてやって。
 もの凄い真面目クンだから、気に入るかどうか判らないけど。
 あなたとは話が合うかも……」

先輩は弟のことを思い出しているのか、可笑しそうにくすくす笑いました。
そのあと先輩は、自転車を押してわたしをバス停まで見送ってくれました。

受験の当日は、下見の日とは打って変わって、校門をくぐる人波が途切れません。
真剣……というか、どの顔も緊張しきって、悲壮な顔つきをしています。

指定の教室に着いて、最後の準備をしました。
よく尖らせた鉛筆と消しゴムを、机の上に並べます。
わたしは駄目で元々と思いながら、張りつめた雰囲気に呑まれかけました。

前の席に腰を下ろした男子生徒が、筆箱を落として中身を床にぶちまけました。
ガチャーンという音に、みんなが注目しました。
男子生徒はもう、泣き出しそうです。
よく見ると、鉛筆の芯がみんな折れていました。

わたしはその男子生徒に、持っていった鉛筆の半分を差し出しました。

「どうぞ」

男子はきょとんとした顔でわたしを見てから、鉛筆を受け取りました。

「あ、ありがと」

「どういたしまして」

この男子生徒のおかげで、わたしはリラックスできました。
けれど、答案用紙は埋められても、自信はありませんでした。
やっぱり浪人かな……と。

(続く)

●連載315(ここでの連載134)●
2003年7月29日(火)21時10分

卒業式に先だって、合格発表の日がやってきました。
その日の朝、わたしは制服の上からベージュのコートを羽織り、
駅に向かいました。お兄ちゃんと待ち合わせていたのです。

もう、春らしい陽気になっていました。
駅前で立っていると、人波が構内から押し出されてきます。
その中に、深い色のスーツをぴしりと着こなしたお兄ちゃんが居ました。

「待ったか?」

わたしは首を左右に振りました。

「ちっとも」

「タクシーで行こうか」

「もったいないからバスで良い」

自宅の近くのバス停から乗った時とは、高校への道筋が違っていました。
シートに肩を並べて座って、窓の外を流れる景色に見入ります。

「緊張してるか?」

「……どうかな。駄目で元々、って感じ」

「賭けてもいいぞ。お前は受かってる」

「そうだといいね」

「もっと自信を持てよ。しかし、結構遠いな……」

「駅からだと遠回りになるみたい。途中で下りて歩いた方が近いかも」

「そうするか? 天気もいいし」

途中下車したのは、わたしとお兄ちゃんだけの二人だけでした。
この辺りは建物が少なくて、まだ田んぼが残っています。

「風が強いね」

「寒いか?」

「少し涼しいけど、気持ち良い」

歩いていくと、かなり幅のある川にぶつかりました。
下流の方に橋が架かっています。
橋を渡って川沿いの土手を歩くと、近道になるようでした。

前後の道にはまったく人影がありません。
発表を見に来ているはずの他の受験生の姿さえも。
大きな道や通学路から外れていたせいでしょうか?

「誰も歩いてないね」

「まさか……道を間違ってないだろうな」

お兄ちゃんがきょろきょろと周りを見回しました。
わたしも背伸びして首を巡らし……。

「お兄ちゃん、あれ」

指さした家並みの隙間に、高校の校舎が見えました。
**高校は小高い丘の上に建っています。
高校へ向けて歩き出すと、登り坂になってきました。

「坂道、きつくないか?」

「はぁ、ふぅ」

お兄ちゃんが手を握って引っ張ってくれました。
学校に近づくに連れて、しだいに人通りが多くなってきます。
わたしたちは仲の良い兄妹に見えるだろうか、と思いました。

校門をくぐると、受験生や保護者が人混みを作っています。
川沿いの道の静けさとは対照的な喧噪でした。
お兄ちゃんが先に立って、人波を分けていきます。

お兄ちゃんの背中が立ち止まりました。
もう、掲示板の下です。

「見えるか?」

掲示された紙に記された数字の列を見上げ。
一つずつ、たどって。

「……あった!」

「○○、やったな!」

お兄ちゃんはわたしの背中に腕を回して抱き上げ、
その場でぐるぐる回りだしました。

周りには、受験生の笑い顔や泣き顔があったかもしれません。
そんなものはみんな、どうでもよくなりました。

「やった、よくやった!」

「お兄ちゃん……目が……」

わたしは目が回ってしまいました。
お兄ちゃんはわたしを地面に降ろし、抱き寄せました。
わたしは足許あしもと覚束おぼつかなく、お兄ちゃんの肩に頭を預けました。

「ごめんごめん……俺の言ったとおりだな。
 やっぱり受かってたろ?」

「うん、うん。嬉しい」

「それじゃ、合格祝いに甘いものでも食べに行こう」

「うん」

校門を出ると、帰りは下り坂です。
住宅街の外れに、樫の木をふんだんに使った建物が見えました。
すっきりと垢抜けた外観の喫茶店でした。

「ここにしようか」

「制服のままで大丈夫かな?」

「まだ入学してないんだから、高校の規則は関係ないさ」

お兄ちゃんが扉を開けると、チリリンとベルの音が鳴りました。
古いジャズナンバーが耳に入ってきました。

「あれは……本物のジュークボックスじゃないか?」

店の奥に、年季の入ったジュークボックスが鎮座していました。
それまでわたしは、小説や映画でしかジュークボックスを知りませんでした。

(続く)

●連載316(ここでの連載135)●
2003年7月30日(水)20時05分

喫茶店のマスターがおしぼりとお冷やを持ってきました。

「いらっしゃいませ」

「あの、あれは……本物ですか?」

「本物ですよ。お金を入れればちゃんと動きます」

骨董品にも見えるジュークボックスはマスターの趣味なのでしょう、
返事がいかにも得意げでした。
注文を済ませてから、ジュークボックスを見に行きました。

ガラスに覆われたケースの中を覗くと、黒い円盤がぎっしり並んでいます。
お兄ちゃんが百円玉を入れました。するするとアームが動いて、
1枚のレコード盤を手品のようにプレーヤーにセットしました。

「すごいね……」

お兄ちゃんは黙って頷き、流れ出るリズムに耳を傾けていました。
店の奥には古そうなアップライトピアノも見えます。
マスターはきっとジャズマニアなのでしょう。

流行とは縁遠い落ち着いたインテリアと音楽。
この喫茶店では腰を落ち着けてパフェを食べられそうです。

わたしの頼んだチョコレートパフェが運ばれてきました。
お兄ちゃんの注文は焼き肉ランチとコーヒーでした。

「○○、それっぽっちで足りるのか?」

「うん。ご飯を食べたらパフェが入らない」

「う〜ん」

わたしの3倍以上軽く食べられるお兄ちゃんには、
ますます細くなっていたわたしの食欲が信じられないようでした。

「おいしいものを少しだけ食べた方がいい。
 その方が経済的でしょ?」

「それはそうだけどな……○○、言い方がオバサンくさい」

お兄ちゃんがくっくっと笑いました。

「む〜」

「いでっ」

マスターに見えないように、テーブルの下でお兄ちゃんのすねを蹴りました。

「……また、ここに来たい」

食後のコーヒーを飲みながら、お兄ちゃんがしみじみと答えました。

「ああ、いい雰囲気だな。また来よう。
 ところで、今からどうする? 今日は時間あるのか?」

「! ……先生に報告するの、忘れてた」

担任に合否を報告しなくてはいけないのを、すっかり忘れていました。

「あ、そっか。そりゃそうだな。俺もこの際挨拶に行くよ。
 もし怒られそうだったら、俺からも謝ろう」

「そんな……忘れてたのはわたしだし……」

「こうやって一緒にノンビリしてるんだから共犯さ。
 死なばもろとも…………ってのは不謹慎か

ギロリと睨むと、お兄ちゃんの声が小さくなりました。

喫茶店を出て、バスで中学校に向かいました。
職員室に入ると、報告に来たのはわたしが最後のようでした。

「すみません。遅くなりました」

お兄ちゃんと並んで担任に頭を下げました。
担任は怒っているどころか、むしろ上機嫌でした。

「聞いてるよ。合格おめでとう。予想通りだったけどね」

「予想……?」

「楽勝で受かると思ってた」

「ありがとうございます」

「あなたの場合、わたしはなーんにも仕事してないからね、
 手間がかからなくて楽ではあったけど、張り合いがないかもね。
 ま、なんにしても受かってよかった」

先生は少しばかり複雑な心境のようでした。

UとVの進路は、もう決まっていました。
Uは田舎の高校へ、Vはヨーロッパへ……。
卒業式の後すぐに、二人とも旅立つ予定でした。

卒業式の日には、UとVのご両親の他に、Vのお爺ちゃんとYさん、
それにお兄ちゃんも保護者として出席しました。

名前を呼ばれて卒業証書を貰いに壇上に上がるとき、
リハーサルを欠席していたわたしはお辞儀を忘れました。
……それぐらいは、ごくささいな失敗です。

Yさんは張り切ってカメラを構えていました。
お兄ちゃんは慈しむような笑顔で、ずっとわたしを見ていました。

卒業。
校歌を合唱しながら。
4月から始まる未知の高校生活よりも、
彩り豊かだった中学校生活の喪失を、強く意識しました。

3年間、本当にいろんな事がありました。
楽しかった時もあります。身を切られるようにつらかった出来事も。
周りでは、女子の多くが泣いていました。

目の奥が熱くなってきても、涙を流しはしませんでした。
UやVと過ごした日々を、きっと憶えていよう、と決めました。
お兄ちゃんのことも、わたしは忘れない。

丸めた卒業証書を掲げて、保護者席のお兄ちゃんを見ました。
お兄ちゃんはじっとわたしの目を見て、頷きました。
こうして、わたしの中学校生活は終わりました。

(続く)

●連載317(ここでの連載136)●
2003年8月1日(金)21時20分

春の陽気が、わたしに新しい生活を運んできました。
まだ着慣れない制服、わたしの細腕では一度に持ちきれないほどの教科書、
そして……誰ひとり見知った顔のない教室。

同じ中学の出身者には、わたしのことを覚えている人も居たでしょう。
けれど、ろくに中学に登校していなかったわたしには、心当たりがありません。
少しも寂しくなかった、というと嘘になります。

でも、お兄ちゃんが、仕事をやりくりして入学式に来てくれました。
それだけで、わたしには十分でした。
山のような教科書と副読本を、お兄ちゃんが代わりに持ってくれました。

最初のホームルームでどんな自己紹介をしたのか、思い出せません。
きっと緊張して上の空だったのでしょう。
クラスメイトたちの顔と名前を覚えるのは苦手中の苦手でした。

幻のように過ぎたホームルームの後、わたしは人の群れから離れ、
お兄ちゃんと二人、校庭の桜並木の下を通って帰途に就きました。

バス停へと向かう道を歩きながら、お兄ちゃんが訊いてきました。

「新しいクラス、どうだった?」

「う……ん。よくわからない。馴染めるといいんだけど」

「また、友達ができるといいな」

「うん……お兄ちゃん、鞄重くない?」

お兄ちゃんの持っているわたしの学生鞄とスポーツバッグには、
買ったばかりの教科書と副読本がぎっしり詰まっていました。

「これぐらい軽いもんだ。しかし、お前には重すぎるかもな……。
 バス通学で座れなかったらきついぞ?」

殺人的な通学ラッシュに巻き込まれたら、本当に死んでしまいそうです。

「なるべく、混む時間をを避けて乗るようにするつもり」

「無理するなよ」

住宅街の中にある小さな公園が目に付きました。
このまま真っ直ぐ帰ってしまうのは残念でした。

「ちょっと、休んでいかない?」

「ん? 疲れたか?」

「そうじゃないけど」

背もたれのない木のベンチに腰を下ろして、見上げると、
頭上は粗い格子状の屋根になっています。
お兄ちゃんが格子に巻き付いたつるに手をやりました。

「これ、藤棚じゃないか?」

あいにくと藤の花はまだ咲いていませんでしたが、
季節になれば咲きこぼれる花房が甘く匂うのだろうな、と思いました。

「咲いていれば絵になったのにね……」

わたしの声には無念さが滲んでいたかもしれません。
お兄ちゃんが笑いました。

「○○は欲張りだな。今日は桜だけでいいじゃないか」

「お兄ちゃんは、桜の花が好き?」

「ああ、散り際が潔すぎるとは思うけどな」

「桜の花言葉はね、『心の美しさ』なんだって」

「へぇ、さすがによく知ってるな。じゃ、藤の花は?」

「……忘れちゃった」

「がくっ。感心して損した」

お兄ちゃんがおどけて膝を折りました。
言えなかった藤の花言葉は……『恋に酔う』でした。

入学して間もなく、部活動の新入部員募集の日がありました。
講堂に集められた新入生の前で、壇上に立った先輩が部の宣伝をします。

わたしにとって運動部は問題外でしたけど、
文化系の部活ならなんとかできるかもしれない、と思いました。

一通りの紹介が済むと、新入生は解散して、
その日いっぱい好きな部活の実態を見学することができます。

わたしはまず、図書室へ足を運びました。
図書室を活動の本拠としているのは文芸部です。
文芸部では部員の詩や小説を会誌に載せているとのことでした。

図書室に入ると、テーブルの上に会誌のバックナンバーが並べてありました。
部活の先輩らしき上級生が数人、そばに佇んでいます。
男子も女子もおしなべて眼鏡をかけていました。

「キミ、入部希望?」

わたしが会誌の表紙を眺めていると、男子の先輩が声を掛けてきました。
態度からしてどうやらこの人が文芸部長のようです。

「まだ、決めていません。少し読んでみてよろしいでしょうか」

「もちろんもちろん。これが最新号ね」

勢い込んで身を寄せてくるので、わたしはずりずりと後ずさりしました。
立ったまま最新号を手に取って、巻頭の短編小説にざっと目を通します。
……最後まで読んでも、話がよくわかりません。

最初に戻って、今度はじっくり時間を掛けて読み直します。
高校生の恋愛物……のようです。
考え込んでいると、また声を掛けられました。

「どうかな?」

どうやら感想を求められているらしい、と理解できました。

「あの……この小説は、連載の途中なんですか?」

「え? いや、違うけど。読み切りだよ?」

(続く)

●連載318(ここでの連載137)●
2003年8月2日(土)22時00分

わたしの言葉に部長は戸惑いの色を隠せませんでした。

「どうして連載小説だと思ったの?」

「登場人物が三人居ますけど、名前だけで人間像がはっきりしません。
 外見もそれぞれの人間関係も。これ以前に描写してあるのかと思いました」

「あ……そ、そうかな」

「どうやら恋愛小説のようですけど、人間像も人間関係も不明なので、
 主人公がヒロインをどう思っているのか理解不能です。
 どんな場所でいつごろ起こった出来事なのかも判りません。
 主人公の独白が地の文の大半を占めていますが、
 なにかに悩んでいるらしい、ということしか伝わってきません」

「…………」

ここまで喋って、やっと気づきました――部長の絶望的な表情に。
頭の中で警報ベルが鳴り響きました。

「えっと……それが感想なわけだ」

「いえ、その、今の段階では、感想を言えるほどの情報がありません」

「ハァ……そう……」

「あの、もしかして……」

「そう、ボクがそれの作者」

「…………」

とてつもなく気まずい、白けた空気が流れました。

「失礼しました」

わたしはぺこりとお辞儀して、可及的速やかに撤退することにしました。
文芸部に入る計画は、当然ながら白紙に戻りました。

「うーん、どうしようかな?」

予定を途中で切り上げたため、大幅に時間が余ってしまいました。
他の部も冷やかして歩こうか、思案しましたが、
またさっきのようになったら……と思うと、どうも気後れがします。

「あれ? ××さん?」

「あ、はい?」

呼ばれて顔を上げると、どこかで見たことのある顔が目の前に。
のんびりと眠そうな目をした、がっちりした体つきの男子です。
襟章の色と組章から、クラスメイトの一人だと判りましたが、
肝心の名前が出てきません。

「なにしてんの?」

「えっと……次はどの部活を見学しようかと」

「行くとこないんだったら、お茶でも飲みに行こうか」

「は?」

「作法室で落研がお茶を点ててくれるらしいよ。
 これはナイショだけど、和菓子も出るらしい」

極秘情報をこっそり明かすような芝居がかった仕草でした。
それにわたしが不審の眼差しを返すと……。

「あれ? ××さん、俺のこと姉貴から聞いてない?」

「お姉さん?」

「俺、jって言うんだけどさ。
 ××さん、この学校を下見しに来たことあるでしょ?
 その時、態度のビッグな上級生に案内して貰わなかった?」

「もしかして、i先輩のことですか?」

「そうそう、それが俺の姉貴。俺ら、似てない?」

言われてみれば、どことなく面立ちが似ています。
容姿だけでなく、新入生とはとても思えない堂々とした態度も。
そのせいか、受け答えが敬語になってしまいました。

「似てます」

「アハハ、敬語はやめようよ。俺らタメじゃん」

j君は笑うと目が糸のように細くなりました。

「俺ももうちょっと背が足りてたらもっと似るんだけどな……。
 姉貴に身長を持って行かれたみたいだ。デキのいい姉貴を持つとツラいよ」

滑らかに舌を操りながら、j君は先に立って歩きだしました。
わたしは釣り込まれるように後を追いました。

「××さんは、もうどの部活に入るか決めてる?」

「まだ」

「それなら落研も考えてみてよ。面白いよ〜」

「オチケン?」

「落語研究会のこと。コミュニケーションは人間関係の基礎だからね。
 落語を研究するとしゃべり方のコツがわかってくるんじゃないかな」

聞いているとうっとりしてくる、立て板に水の見事なトークです。
j君は落研に入部するつもりのようでした。
高座に居るj君を想像してみると、なるほど似合っています。

「……わたしが落研?」

続いて想像してみました。が……似合いません。徹底的に似合いません。

「ズバリ、自分には似合わない……と思ってる?」

「はい」

「××さんは、今の自分に満足してるのかな?」

(続く)

●連載319(ここでの連載138)●
2003年8月4日(月)23時10分

どきりとするような、鋭い問いかけでした。

「××さんてさ、すっごく落ち着いてるじゃん?
 けど……どっか人を遠ざけてるみたいなんだよね」

「…………」

「気を悪くしたらゴメン。
 今だって、手の届く距離には絶対近づいてこないでしょ?
 意識してやってるのかどうかわかんないけど」

わたしは無意識に、男性とのあいだに距離を置くようになっていました。

「高座からお客さんを見下ろしてごらん。
 大勢の前で一席披露する度胸がついたら、世界が変わる」

こんな台詞を聞いたら、いかがわしく聞こえるのがふつうでしょう。
けれど、j君はふつうではありませんでした。

小揺るぎもしない自信に満ちあふれた態度でありながら、
その目に偏執的な光はありません。
人情をわきまえている人特有の、懐の深さがうかがえました。

「ま、決めるのは××さん次第だけどね。和菓子を食べるのはタダだし」

j君が笑うと、瞳が見分けられないほど目が細くなります。
なんとはなしに、この人は信用できる、と直感しました。
わたしはj君から少し後れて付いていきました。

j君は男子にしては背が低めでしたけど、目の前にいると大きく見えました。
そう思ったのはわたしだけではなかったようです。
その後の生徒会選挙で、j君は新入生として異例な副会長に立候補し、当選しました。

他の男子とどこが違っていたのか、うまく説明できません。見ればわかります。
j君は、人を動かす力、ある種のカリスマを備えていました。

作法室は二間続きの和室です。校内で畳敷きの部屋はここだけでした。
必修クラブの茶道部がこの部屋を使う関係で、お茶の道具が常備してありました。

j君とわたしが上履きを脱いで作法室に入ると、中には先客が居ました。
羽織袴に身を包んだ落研の先輩らしき男子が二人、新入生らしき男子と女子が一人ずつ。
膝を崩してお菓子を食べています。

「いらっしゃ〜い!」

痩せて背の高い先輩が、少し甲高い声で歓迎してくれました。
その横で、ずんぐりした素朴そうな風采の先輩が頷いています。

車座になって、お茶とお菓子をすすめられ、自己紹介することになりました。
背の高い眼鏡をかけた先輩が部長のkさん、ずんぐりしている方が副部長のlさんでした。
新入生の飄々ひょうひょうと掴み所のなさそうな男子がm君、活発そうな女子がnさんでした。

「……というわけで、最初から落研に入るつもりでした」

j君の自己紹介は、むしろ落研の宣伝のようでした。
nさんは興味深そうに頷いていました。
そこでm君が揶揄やゆするようにつぶやきました。

「すごいな。俺なんか冷やかしに来ただけなのに、そこまで考えてたんだ」

「いやいやそれほどでも」

j君は意図的に誤解してみせて、笑いを取りました。
わたしも目を細めていると、k部長が尋ねてきました。

「もしかして、キミも入部志望?」

「え? あ、その、見学しに来ただけです。今のところ」

「ちょっと見たところ落語するようには見えないなぁ。
 そこが意外性あっていいかもしれないよ? ねっ?」

「あ、はい……」

「それに落語部に入れば部費でお菓子が食べられるよ」

「え、いいんですか?」

「いいのいいの! 使わないと部費減らされちゃうし」

「わたし、人前で喋った経験がないんです」

「OKOK。こいつも落研に入るまではろくに口も利けない木偶の坊だったんだよ。
 今でもたいして変わらないしね」

k部長は隣のl先輩に視線をやりながら、しれっと暴言を口にしました。
それでもl先輩はにこにこ笑っています。
k部長とl先輩は、昔から親友同士だったそうです。

おもむろにl先輩が口を開きました。

「うん……俺にはこいつみたいな才能は無いけど、落語は楽しいよ」

j君の異常に説得力のある誘い、k部長のオープンな性格に加えて、
このl先輩の訥々とつとつとした言葉が決め手になりました。
こんなわたしでも、先輩のように落語を楽しめるかも知れない、と。
その翌日、わたしは入部届をk部長に提出しました。

その場にはj君も居ました。

「j君も入部届を出しに?」

「いや、俺はとっくに出した。きのう作法室に顔を出したのはサクラとしてさ」

「サクラ?」

k部長がわたしの入部届を仕舞い込みながら言いました。

「××さんを誘わせたのは俺の命令なんだ。
 部員が5人以上居ないと部活として認められないんだよ。
 実はっ……部費でお菓子を食べられるなんていうのは真っ赤な偽り。
 許してくれっ」

k部長は勢いよく頭を下げました。

「いえ……お菓子のことは別に気にしていません」

ふつうに応えると、部長は少しがっかりしたようでした。
今のは突っ込みどころだったようです。

「j君、わたしが入部しなかったら、どうするつもりだった?」

「そうだな……正直に訳を話して、幽霊部員として名前を貸してもらうつもりだった」

「最初からそうした方が面倒がなかったんじゃない?」

「ノルマはあったけどさ、きのうも嘘は言ってないつもりだよ。
 落語は楽しい。楽しいことをしていれば、人生も楽しくなる。
 ハッピーになりたくない? ××さん」

j君は悪びれた風もなく目を線にしました。
結局、m君とnさんも入部して、合計6人で活動を始めることになりました。

(続く)

●連載320(ここでの連載139)●
2003年8月5日(火)22時25分

放課後になると、nさんが教室までやってきました。

「○〜○ちん、クラブ行こっ」

最初から想像を超えてフレンドリーでした。

「……ちん?」

「あれ、ごめ〜ん、気に入らなかった?
 それじゃ○○ぽんは?」

「もう少しふつうの方が……」

「○○ぽんカタイよカタイ〜。もっと柔らか〜くしなきゃ。ねっ。
 わたしのことはnぴーでいいからさ」

わたしの呼び名は、○○ぽんに決定してしまったようです。
聞き耳を立てていたに違いないj君が、白々しい顔で声をかけてきました。

「二人でなに話してるの? ○○ぽん」

「……ふぅん。そういうこと言うんだ」

「な、なにが?」

「そろそろ部活に行きましょうか、jっち」

「jっち!?」

「恥ずかしい?」

「ちょ、ちょっとね」

「じゃ、ふつうに呼ぶことにしましょ。j君」

「OK、休戦ということで、××さん」

j君とのやりとりに、nさんが割り込んできました。

「二人とも仲いいんだね〜。もしかしてわたしってばお邪魔虫だった?」

あはははは、と乾いた笑いを浮かべて、j君は後ずさりました。

「それじゃ、先に行ってる。じゃっ!」

「ちっ、逃げたか……」

ダッシュで逃げたj君をnさんは舌打ちして見送り、わたしに視線を向けました。

「それで、○○ぽんは誰か狙ってるわけ?」

「え? わたし、別に……」

「j君は○○ぽんを狙ってるぽいね〜」

「ええ? そうかな?」

「もしかして、○○ぽん……ニブニブ?」

「う……そう言われないこともないかも。でも、違うと思うな。
 j君は、ぜんぜんいやらしい感じがしない」

「ん〜〜〜、どうだろ? それじゃ、mには興味ある?」

m君とは、部活動見学の時に二言三言話しただけです。
細面の端正な顔立ちですが、斜に構えたような態度で本心を見透かせません。

「別に……まだあんまり話したこともないし」

「じつは、mはわたしと前から知り合いなんだ。中学校もいっしょ。
 はっきり言っちゃうけど、わたしはmを狙ってたりして」

nさんはわたしの目を真っ直ぐに覗き込んできました。

「そういうわけだから、
 ○○ぽんはmに手を出さなければ平和な高校生活を送れるんじゃないかな〜」

あからさまな脅迫でした。

「m君はわたしのタイプじゃないと思う。安心していいよ」

「それじゃ、わたしたち仲良くできそうね」

nさんはにっこり笑って手を差し伸べてきました。わたしはその手を握り返しました。
みんながnさんぐらい判りやすい態度でいてくれたら、人付き合いが楽になるのに、
と思いました。

作法室に集まると、先輩たちはふつうの制服を着ていました。
羽織袴で正装するのは特別な日だけのようです。

最初に、亭号と芸名を決めなくてはいけません。
亭号というのは、例えば〜〜亭$$の〜〜亭の部分です。
部の内部では、同期はお互いに芸名で呼び合う習わしでした。
先輩のことはk師匠、l師匠です。

ただし、煩雑さを避けるために、連載中では呼び方を変えないことにします。

k先輩とl先輩はそれぞれ、OBから異なる亭号を受け継いでいました。
新入部員は自分の師事する先輩を決めて、同じ亭号を名乗ります。
わたし以外の三人は、k先輩の亭号を選びました。

落語家として才能に恵まれているのは、明らかにk先輩の方でした。
明るさと緩急織り交ぜた話術は、部長に相応しいものです。
けれど、わたしはあえてl先輩の亭号を名乗ることにしました。

「えっ、いいの?」

l先輩は意外そうでした。

「はい。わたしはあまり器用ではないので、l先輩に近いと思います」

「はははっ、そういうわけか。うん……でもまぁ、うれしいよ。
 正直いって『〜〜亭』は俺の代でおしまいかな、って思ってた」

「よろしくお願いします」

(続く)


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